文楽かんげき日誌

お正月には文楽が似合う

東 えりか

1月3日、大阪日本橋の国立文楽劇場前には人垣ができ、今や遅しと人形たちの登場を待っている。初春公演の初日には劇場近くの黒門市場から縁起物である2尾の「にらみ鯛」が届けられ、お人形による鏡開きと樽酒のお振舞いが行われる。

国立文楽劇場は今年、開場から35周年。私も通い始めてから10年が経つが、ますます文楽の虜となっている。

初めの頃は、人形にばかり目を奪われていた。だがいつのまにか浄瑠璃の語りに引き込まれ、観劇の回数を重ねるごとに物語の見事さに驚かされる。小説を読むことが仕事の私にとって、江戸時代に作られたお芝居なのに、現代にも通じる普遍性があることに感心させられるばかりだ。歴史の大きな流れより、そこに存在した人々の心の機微に重きが置かれている。源平合戦や忠臣蔵、中国・清朝の物語であろうと、人の哀しみや怒りに観客は心を添わせるのだ。

平成最後のお正月、今年の初春公演もまた泣かされた。

第一部の『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』は江戸時代に起こった「伊達騒動」を鎌倉時代に設定を置き換えた、文楽だけでなく歌舞伎でも有名な演目だ。命を狙われる幼君・鶴喜代を守る乳母の政岡とその息子の千松がけなげである。「お腹が空いてもひもじくない」と言い張る二人の子供に「えらいえらい」と褒める政岡。実の子の千松を殺された慟哭は浄瑠璃の聞きどころ。

今回、咲太夫さんが病気のため「政岡忠義の段」は織太夫さんが代演をされた。師匠の代演はとても緊張するだろうと思うが、心に響くいい浄瑠璃だった。澄んだよく通る声が「コレ千松、よう死んでくれた、でかした、でかした……でかしゃったなア」とはじまる長台詞には、もう胸がいっぱいになる。一昨年、人間国宝となった吉田和生さんが遣う人形の政岡の顔が、それまでの無表情から母の顔になったように見える。

第二部で印象的だったのは『壇浦兜軍記』の「阿古屋琴責の段」だ。

昨年12月、東京・歌舞伎座で同じ演目の歌舞伎を観た。長い間、坂東玉三郎さんお一人が勤めていた遊君阿古屋の役を、中村梅枝さんと中村児太郎さんというふたりの若手女形が初めて挑んだお芝居だった。若い二人の阿古屋の後ろで、玉三郎さんはなんと岩永左衛門致連を演じた。そう、文楽の人形振りのあの役だ。それがもう見事で、笑いとともにため息が出た。

人形の阿古屋を遣うのは勘十郎さん。舞台に出てきたときに目を引いたのは、帯の真ん中に付いた大きな二匹のちょうちょ。

プログラムに掲載されていたインタビューでも「衣裳に工夫を加えて、牡丹の柄の帯に取り付けられるものを作ってみようか」と語られている。後にフェイスブックを見ると、ご自分で作っている様子がアップされていた。阿古屋の華やかさにぴったりだ。

この阿古屋、主遣いだけでなく、左遣いの一輔さんも足遣いの勘次郎さんも顔を出し、特別な演目であることがよくわかる。琴、三味線、胡弓と楽器が変わるたびに指先が変わる。三曲を担当した寛太郎さんとのシンクロが素晴らしい。会場が拍手に包まれていく。

ああ、今年も良いものを観て一年が始まった。文楽劇場開場35周年記念の公演は『仮名手本忠臣蔵』を3回に分けて上演するそうだ。楽しみでならない。

■東 えりか(あづま えりか)
書評家。千葉県生まれ。信州大学農学部卒。幼い頃から本が友だちで、片っ端から読み漁っていた。動物用医療器具関連会社の開発部に勤務の後、1985年より小説家・北方謙三氏の秘書を務める。 2008年に書評家として独立。「読売新聞」「週刊新潮」「ミステリーマガジン」などでノンフィクションの、「小説宝石」で小説の書評連載を担当している。「信濃毎日新聞」書評委員。2011年、成毛眞氏とともにインターネットでノンフィクション書評サイト「HONZ」(外部サイトにリンク)を始める。好んで読むのは科学もの、歴史、古典芸能、冒険譚など。文楽に嵌って10年。ますます病膏肓に入る昨今である。

(2019年1月4日第一部『二人禿』『伽羅先代萩』『壺坂観音霊験記』、
第二部『冥途の飛脚』『壇浦兜軍記』観劇)