国立文楽劇場

大阪のお正月を楽しむ

中沢 けい

 暮れに乗ったタクシーの運転手さんが「この頃は、歳末とかお正月という雰囲気がなくなりましたね」と嘆息していた。商店街の軒先にしめ縄が飾られ、ところどころに竹がたっているという歳末風景が当たり前のように見られなくなったのはいつ頃からだろうか。年も押し詰まってくると、商店街の一角に年の市が出た。近隣の農家さんが、しめ縄、お飾り、門松、うらじろ、橙などを並べて売っていた。あの年の市も今では風物詩と言えなくなった。

 お正月の習俗は土地によって変わるもので、松の内に旅行にでたりすると、旅先の習俗を珍しく眺めることがある。東京と同じように大阪でも歳末、お正月の眺めは次第に見られなくなっているだろうけど、劇場は別だ。

 文楽劇場舞台上のにらみ鯛一対が掲げられましたと、報じられる記事をネットで見つけ、大阪のお正月を楽しみに行こうと決めた。お正月を楽しむなら第一部『七福神宝の入舩』だ。

 文楽劇場入口に立派な門松。松と竹に葉ボタンや千両が入れ込んであるのも大阪風。入口を入れば、籠に盛られた二匹の鯛と「にらみ鯛」の説明書き。塩鯛二匹をかまどの上に吊り、六月一日に羹にして食べたとか。大阪の知人がにらみ鯛は話に聞くけど実物は見たことがないと言っていた。半年もかまどの上に吊られていた塩鯛の羹はいったいどんな味がするのだろう。今年はお茶のお接待も復活していたので、それもこれも久しぶりのお正月気分を味わえた。お正月はみんなで「おめでとう」と言える機会なのだと感じいったものだ。

 舞台は紅白の横縞の幕。幕が落ちるのかと見ていると、これがするすると上がって行く。舞台には大海原が広がる。そしてするすると上がってくるのは七福神を乗せた宝船。青い裃をつけた太夫さんが七人、三味線さんが六人と賑やかにそろい、お琴と胡弓も用意されていた。これだけで、わくわくする。

 子どもの頃から七福神を不思議な神様だと思っていた。お寺にいるのか神社にいるのかよく分からない。でも、おめでたい神様たちだと、教えられたわけでもないのに知っていた。とりわけ七人の中の紅一点、弁財天すなわち弁天様は馴染みが深い。私の生まれた家は横浜市内の平潟湾で釣船屋を営んでいた。その店の屋号を「弁天屋」と言った。三河から出て来て釣船屋を開業した祖父がつけた屋号なのか、それとも誰かに頼んでつけたものか、今はもう分からない。平潟湾には瀬戸神社前に琵琶島と呼ばれる小島があった。島の形が琵琶に似ているからそう呼ばれているらしい。国道一六号線から伸びた道が琵琶島と陸を繋いでいた。島には弁天様が祭られていた。子どもたちは琵琶島と呼ばず弁天様と呼んでいた。

 宝船の七福神が酒盛りを始める。寿老人が琴の音を響かせ、布袋様は腹鼓と余興が続く間に、武骨な毘沙門が弁天様にお酌をしてくれとせがむ。すると舞台下手の方の客席から朗らかな笑い声が聞こえてきた。どうも恵比寿様や大黒様の宴席でおもしろい仕草があったようだ。

 大黒様が奏でる胡弓を聞いたあと、いよいよ弁天様はなにか余興をしろと神様たちに所望される。紅一点の遠慮で、自分はそんなに芸はないからと断っていた弁天様も、神様たちの熱意に応じて琵琶を弾くと言う。はて、琴や胡弓は三味線弾きさんの近くに置いてあったが、琵琶は見当たらない。簾内から琵琶の音が響くのだろうかと、想像していたら、想像を裏切る展開で、三味線弾きさんがべべんと三味線で琵琶の音色を表現したのには驚いた。いったいどんな奏法なのか、私にはまったく分からないが、三味線でもこんな音が出るのかと聞きほれた。三味線が奏でる琵琶の音に乗って弁天様が歌うのは琵琶湖に浮かぶ竹生島の由来で、酒席の余興というよりも、なんだかありがたい講義でも聞くような真面目ぶりだった。神様たちの酒宴はおめでたく賑やかで朗らかに続く。もちろん乱暴狼藉もなければ不埒な仕業をしかける罰当たりもいない。神様たちの余興のおかげで、楽器の様々な音色を聞き分けることもでき、大阪のお正月をおめでたい神様の酒宴に交じってたっぷりと楽しむことができた。

 これで大満足なのだが、第一部にはもうひとつの楽しみがあった。『近頃河原の達引』の「堀川猿廻しの段」に登場する猿廻しの与次郎だ。与次郎の人形遣いは桐竹勘十郎さん。『義経千本桜』で見た桐竹勘十郎さんの遣う狐の人形の縦横無尽の動き、幕切れには宙乗りまである舞台の眺めを時々、思い出しては妙に楽しくなっている。お芝居の筋などはどこかに飛んでいってしまう舞台だった。『近頃河原の達引』は井筒屋伝兵衛と遊女おしゅんの心中物語だが、物語の筋と離れ、おしゅんの兄の猿廻し与次郎の登場が待ち遠しい演目だった。与次郎が舞台に現れ、ごはんを食べる。ごはんを食べる仕草がじつに細かく演じられる。これが猿の綱を操る微妙さに繋がってゆくところがおもしろかった。雄雌の猿、これを操る与次郎の仕草の精妙さは、大胆な狐の動きとはまた違った魅力があった。

 七福神さんの酒宴にお相伴した帰りに、かわいい猿の芸を見せてもらった。そんな気分を満喫した舞台だった。

■中沢 けい
作家。法政大学教授も務める。1959年生まれ。高校在学中に書いた「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞。1985年『水平線上にて』で野間文芸新人賞受賞。著書に『野ぶどうを摘む』『女ともだち』『豆畑の昼』『さくらささくれ』『楽隊のうさぎ』『うさぎとトランペット』など。千葉県出身。

(2024年1月8日第一部『七福神宝の入舩』『近頃河原の達引』観劇)