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国立劇場

研修インタビュー 中村歌女之丞(なかむらかめのじょう)師(歌舞伎俳優研修講師)
※令和2年11月掲載

 中村歌女之丞先生は、昭和49年に国立劇場の第2期歌舞伎俳優研修を修了し、名優・六代目中村歌右衛門丈に入門されました。以後、女方として活躍し、平成4年からは研修助手、平成19年からは研修講師を務め、後進の育成にも熱心に取り組んでいらっしゃいます。平成26年には、歌舞伎俳優研修修了者として初めて幹部に昇進されました。

 

《芝居好きな人たちに囲まれて》
Q. 歌舞伎を初めてご覧になったのはいつですか?
A. 私の地元の神奈川県愛甲郡愛川町にはかつて地歌舞伎があり、祖父も父も歌舞伎が好きで、私は芝居好きな人たちに囲まれて育ちました。中学生の頃に、地元の人たちと一緒に国立劇場の歌舞伎鑑賞教室を見に行きました。バスを2台借りて行ったので、随分大所帯でしたね。この時、初めて歌舞伎を生で観ました。『仮名手本忠臣蔵』の大序から四段目までを上演していて、当時25歳だった片岡仁左衛門さんが大星由良之助、19歳だった坂東玉三郎さんが顔世御前をなさっていました。

Q. 歌女之丞先生の地元のように、かつては地芝居が日本各地で盛んでしたね。
A. 芝居小屋が全国各地にありましたね。芝居小屋で思い出深いのは、昭和60年に第1回目のこんぴら歌舞伎が行われたときのことです。大阪中座の公演に出ていましたが、千穐楽を打ち上げ、続いて金丸座公演に出演しました。そこで、江戸時代末期に活躍した初代中村歌女之丞の番付(ばんづけ)を見ることができたのが印象に残っています。

Q. 歌女之丞先生が研修生になられた頃は、今よりも歌舞伎が身近な存在でしたが、研修生に応募する人は多かったのですか?
A. 私が受験した時は30人以上の申し込みがあったようです。志望動機の作文、面接などを経て、12人が合格しました。私は高校を中退して16歳で研修生になりましたが、同期は16歳から23歳まで、様々な経歴の人がいました。歌舞伎を観たことがない人、日本舞踊をやっていた人、脱サラした人、新劇をやっていた人...みんなそれぞれでした。
 私は、初めて歌舞伎鑑賞教室を観てから毎年鑑賞教室に通い、テレビでも歌舞伎を観ていましたが、芸事をやったことはありませんでした。それでも歌舞伎をやってみたかったから、研修生に応募しました。

《楽しく充実していた研修生時代》
Q. 歌女之丞先生が研修生だった頃と現在の研修で、変わったところはありますか?
A. 今の歌舞伎俳優研修は2年間ですが、私が研修生だった頃は1年10か月でした。私は第2期生だったので、まだ研修のカリキュラムが確立していく最中だったのだと思います。今は平日のみ研修を行っていますが、当時は土曜日も半日授業がありました。
 それから、今よりも実技指導の先生の人数が多かったように思います。先代の中村又五郎(またごろう)先生をはじめ、二代目中村芝鶴(しかく)先生、十代目市川高麗蔵(こまぞう)先生、三代目河原崎権十郎(ごんじゅうろう)先生、七代目市川門之助(もんのすけ)先生、二代目市川子団次(ねだんじ)先生、五代目市川九蔵(くぞう)先生、中村松若(しょうじゃく)先生など、たくさんの先生方に教えていただきました。立廻り・とんぼは坂東八重之助(やえのすけ)先生に教わりました。歌舞伎実技以外にも、日本舞踊、義太夫、長唄、鳴物、箏曲など、たくさん教えていただき幸せでした。

Q. 現在は年度末に研修の成果を披露する研修発表会を行っていますが、発表会は当時もありましたか?
A. 発表会は修了公演を含め4回ありました。歌舞伎実技以外に、日本舞踊、義太夫、長唄なども披露しました。大道具のある舞台で芝居をさせていただき、幹部・先輩方皆さんが来てくださいました。昭和48年12月の発表会は、「鳴神(なるかみ)」と「河庄(かわしょう)」の2本立て。私は「鳴神」の雲の絶間姫を演じました。玉三郎さんは、今でもその時のお話をしてくださいます。「あなた、あの時何歳だったの?」と尋ねられ、「18歳です」と答えると、「昨日のことのように思い出すわ」と言ってくださいます。研修発表会からちょうど20年後に、稚魚の会・歌舞伎会合同公演(研修修了者及び幹部俳優に直接入門した俳優が、日頃の研鑽の成果を披露する会)で同じ役を勤めました。発表会では先代の門之助先生と先代の権十郎先生からご指導いただきました。合同公演の時には門之助先生は亡くなられていましたが、権十郎先生には見に来てくださいというお手紙を差し上げたところ、見に来ていただけて嬉しかったです。

Q. 研修生時代はどのような毎日でしたか?
A. 研修はとても楽しく充実していました。研修生になるまではあまり身体が丈夫ではなかったのですが、研修は約2年間、無遅刻無欠席で受けることができました。

Q. 歌女之丞先生の研修生時代から講師を務めていらっしゃる先生方で、今でも現役で教えて下さっている方々が何名かいらっしゃいますね。鳴物の田中佐太郎(さたろう)先生、長唄の杵屋喜三郎(きさぶろう)先生、杵屋寒玉(かんぎょく)先生、日本舞踊の花柳錦吾(きんご)先生は、約50年間講師として研修に関わってくださっていますね。
A. そうですね。修了公演では、研修生全員で立方(たちかた)(踊る人)、地方(じかた)(演奏する人)に分かれて、先生方のご指導の下、日本舞踊「雨の五郎」をやりました。舞踊も長唄も鳴物も、研修生全員お稽古をしていただきますが、私は本番で太鼓を演奏しました。太鼓が好きですので、佐太郎先生に太鼓をご指導いただき嬉しかったです。
 舞踊は藤間流、花柳流、長唄は杵屋、今藤の先生方に教えていただきました。箏曲は私たち2期生から始まり、米川の先生方がお稽古してくださいました。義太夫は、文楽の野澤松之輔(まつのすけ)先生、鶴澤重造(じゅうぞう)先生、野澤吉兵衛(きちべえ)先生、女流義太夫の豊澤猿公(えんこう)先生に教えていただきました。松之輔先生と重造先生は東京に住んでいらして、大阪の朝日座や地方公演に出演なさっている時以外は毎月お稽古をしていただきました。松之輔先生は活版の本で教えてくださいましたが、重造先生は文楽と同じ五行本を使われます。読めないので、一所懸命ふりがなを振りました。
 今更ながら、先生方皆様よくあれほどに熱心に教えてくださったなと思います。教えていただけるのは幸せで、大変感謝しています。

《先生方の教えを若い世代に伝えたい!》
Q. 歌女之丞先生は、平成4年からは研修助手、平成19年からは研修講師として歌舞伎実技を教えてくださっていますね。
A. 研修生は修了後にまず腰元や仲居などの役を勤めます。そういったお役も先代の中村梅花(ばいか)さんや中村時蝶(ときちょう)さんが教えていらっしゃいましたが、その助手をしていて、今では講師として教えるようになりました。

Q. まさに、先輩の教えを引き継ぎ伝えていらっしゃるんですね。
A. 日本の古典芸能は、そうやって伝承していくものです。教わったことを若い世代に伝えていくことは我々の責任でもあり、これからも若い方に引き継いでもらう必要があります。

Q. 講師として教える立場になられて、研修生活について何か思うところはありますか?
A. 日本舞踊の藤間大助(だいすけ)先生が「教えることは教わること」と仰っていたのをよく覚えています。研修生に授業をする立場になってから、先生のお言葉の意味を実感しています。教えることには責任や根気、体力が必要です。どうしたらわかってもらえるかを常に考えていなければなりません。研修生時代に何も知らなかった私たちに、先生方は熱心にたくさんのことを教えてくださったのだなあと改めて思います。さらに、当時は研修の制度が始まったばかりで前例がなかったわけですから、本当に大変なことをしていただけたのだと思います。実際、又五郎先生は「最初はどうしようかと思っていたけれど、教えながら考えた」と仰っていました。

《憧れの歌右衛門に入門》
Q. 研修を修了したら、どのような生活を送っていらっしゃいましたか?
A. 当時の研修制度では、修了後1年間は伝統歌舞伎保存会の預かりという身分で、その後、入門先が決まります。私はずっと憧れていた旦那(六代目中村歌右衛門)に入門することができました。歌舞伎を観始めた頃から女方に興味があり、私の中では、女方といったら旦那でしたので幸せでした。

Q. 中村歌右衛門丈の舞台で、特に思い出深いものはありますか?
A. 伝統歌舞伎保存会の預かりになっていた時に拝見した、「かさね」(昭和49年 歌舞伎座)です。私は新橋演舞場に出演していましたが、旦那の舞台を見せていただくために、ほぼ毎日歌舞伎座に通っていました。本当に素敵な舞台でした!

Q. 歌女之丞先生ご自身が出演された舞台で、特に何が印象に残っていますか?
A. 本興行で特に印象に残っているのは『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』の三婦女房おつぎのお役です。平成14年11月、平成中村座大阪公演で初めて勤めてからシアターコクーンのほか、ニューヨークやベルリン等、海外でもやらせていただき、これまでに192回このお役を勤めました。
 稚魚の会でも、たくさんのお役を勉強しました。昭和51年には、「御所桜堀河夜討」のおわさの役をやらせていただき、旦那と紀尾井町(きおいちょう)さん(二代目尾上松緑(しょうろく))の監修で、先代の中村梅花さんに手取り足取り教えていただきました。昭和55年の稚魚の会では「仮名手本忠臣蔵」の九段目の戸無瀬を演じましたが、いつも教えてくださる梅花さんのお具合が悪かったので、旦那に教えていただきました。

Q. 歌女之丞先生は研修修了者として初めて幹部に昇進されましたね。
A. 引き上げてくださった方がいらしたからこそのことです。一所懸命にやっていれば、必ず誰かが見ていてくださいます。
 幹部になると、歌舞伎公演のポスターに写真が載るようになります。研修生時代に日本舞踊を教えていただいた花柳錦吾先生は今でも講師を務めていらっしゃいますが、私に「君の写真が歌舞伎のポスターに載って嬉しいよ」と言ってくださいました。有難いお言葉です。

Q. 幹部になると、それまでとどのようなことが変わるのですか?
A. 名題、名題下には、皆さんその立場で勤めるお役に責任があります。幹部も同じです。 幹部にならないかというお話をいただいた時は58才でしたので、体力的・能力的に責任を果たせるか悩みました。最終的に中村梅玉(ばいぎょく)若旦那にご相談し、お受けすることにいたしました。

《スタートよりもゴールが大事》
Q. 歌舞伎俳優を目指すにあたって、気を付けた方がよいことはありますか?
A. 一所懸命やることが大事です。一生かけてやる仕事ですから、長距離走と一緒でスタートよりもゴールが重要です。ゴールできちんとテープを切ることが大切です!
 それから、立役(男性の役)でも女方(女性の役)でも、正座ができないといけません。今のライフスタイルでは正座をすることが少ないので、大変なことかもしれませんね。

Q. 歌女之丞先生ご自身が普段から心がけていらっしゃることはありますか?
A. 歌舞伎俳優は25日間の興行を休めない仕事で、健康であることが一番ですから、スクワットをして体力を維持しています。

Q. 歌舞伎俳優研修生を目指す人にメッセージをお願いします。
A. 是非歌舞伎を観て好きになってください。研修で丁寧に教えていただけるので、これまでに何も芸事をやったことがなくても大丈夫です。一所懸命やることです。

Q. 歌舞伎の魅力は何だと思いますか?
A.歌舞伎をやるのは難しいです。難しいからこそ、やる意味があると思います。

Q. 新型コロナウイルスの流行で、歌舞伎はこれまでの興行の形を変えて上演せざるを得なくなりました。今の状況についてどう思いますか?
A. 歌舞伎は400年あまり続いていますが、その歴史の中で今が一番の危機だと思います。この事態を乗り越えて、コロナが早く収束し、通常の公演ができるようになることを願います。

本日はお忙しい中、ありがとうございました。