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国立文楽劇場

開場40周年記念文楽かんげき日誌SPECIAL
近松 ことばの重さ ―『女殺油地獄』 ―

森田 美芽 

夏の夜には拭うことのできない闇がある。それを気づかせる、近松門左衛門『女殺油地獄』。これまでも何度か見たが、そのたびに河内屋与兵衛の人物像にやるせない思いを抱いた。救いようのない男と思っていたが、この舞台で、与兵衛と、それを取り巻く人々に、新たな側面が見えた。

「豊島屋油店の段」若太夫、清介。旧暦の五月五日の前夜、節句といい、菖蒲に幟が夜になってもざわめいていて心を落ち着かせない。豊島屋では主の七左衛門は節季ごとの集金に回り、家の中ではお吉が3人の娘の世話をしながら店を守っている。ふと櫛の歯が折れる。これは不吉のしるしである。さらに七左衛門がいったん帰ってきて、慌ただしく集金を渡し、立ち酒を飲む。それは野送り、つまり葬送の作法である。何かこの家に不吉なしるしが立て続けに起こる。これらが伏線となる。

片や外では、与兵衛が暑苦しい恰好のまま、店を覗いている。大見得切って家を出たものの、衣替えの金もない状態と見える。綿屋小兵衛の登場。短い言葉で、与兵衛が父の判を使って、明日になれば元利合わせてざっと5倍というとんでもない高利で金を借りたことが語られる。「河内屋与兵衛男ぢや男ぢや、当てがある」と強がる。それで「一升差さぬ脇差も今宵鐺の詰まりの分別」と、「一銭の当てもなし、茶屋の払ひは一寸逃れ」という、いよいよのっぴきならない状況が語られる。こんな金を借りるとは、いよいよ正気の沙汰ではない。先の見通しも立たず、いまを逃れることしか目にはいらないという末期的な状態。なのにまだ、「世界は広し二百匁などは、誰ぞ落としさうなものぢや」と、いよいよ自分の都合のいい願望に逃れている。この弱さというか、幼稚さ。

そこに思いがけず継父徳兵衛が現れ、慌てて身を隠す与兵衛。その継父の言葉が労しい。与兵衛の性根を知り抜いた上で、先代である与兵衛の父(徳兵衛には主人)への義理のゆえ、何とか与兵衛をかばおうとする。「二人の子供に心を尽くすは皆故旦那への奉公、今与兵衛めを追ひ出だし、一生荒い詞も聞かぬ親方に、草葉の陰より恨みを受くる、無果報はこの徳兵衛一人」この継父は、先代への義理のゆえに、継子の与兵衛を何とか真人間にと画策するが、与兵衛はその継父の願いをことごとく裏切る。

さらに母のお沢が現れ、口では与兵衛に勘当と言いながら、実はわざと与兵衛に厳しく当たることで、「辛ふ当たりしは継父のこなたに、可愛がつてもらひたさ」と、武家の義理を立てることと、母として子と継父の間を取り持とうとする情のせめぎ合い。

しかし、親の合力、お吉の情けも、彼の直面する困難、新銀二百匁には届かない、という現実。そしてその借金は継父を巻き込み、さらに年寄り五人組にまで及び、継父の不名誉となるに違いない。そして、意外にも与兵衛は、継父に難儀をかけるために自害もできないという、まさにお吉に金を借りるしかない状況に追い込まれているのだ。

しかしお吉は断る。この場の始め、娘らの髪を梳きながらの、女には「鏡の家の家ならで、家といふ物なけれども」が響いてくる。たとえ何十年夫婦として共に生きていても、女には自分で決める決定権はない。与兵衛の頼みを断るしかないのだ。そしてその代わりと出された樽に、油を詰めるために背を向ける。

与兵衛はこの時、お吉を殺して金を奪うことを決意したのではないか。まずは貸してくれと、次に不義になっても、と、最後は自分の置かれた状況を恥も外聞もなくお吉に打ち明ける。それがたとえ真実であったとしても、過去の与兵衛を知っている、また両親の思いを聞いているお吉には、金を貸すという選択肢はありえない。

刀を抜き、突き刺す。それも慣れていないのは明白だ。そして言う。「ヲヽ死にともないはず、尤も尤も。こなたの娘が可愛いほど、俺も俺を可愛がる親父が愛しい」そう、ここで与兵衛は、生みの母ではなく、さんざん狼藉をはたらいた継父に対して言っている。すまないという思いは、母ではなく継父に向けられている。しかしその思いは、最大の恩人を殺すという形でなされる。

なぜ与兵衛はこのような破滅的な生き方をすることになったのか。成長の中で、父の不在、壁となって世間や社会のルールを知らせる父的な存在が欠けていたからか、それとも優等生の兄に対して、ことごとく劣等感を持って、ただ目立つことや勢いがよいことだけを自分の誇りにしたからか。そうした生き方ゆえに金の世の論理、金さえあれば思いのまま、という、この時すでに江戸の町人社会の中にうごめいているその論理に絡めとられていく悲劇に変じていく。派手好き、女にもてようとする。金はいくらあっても足りない。金がなければ、彼のプライドは瓦解する。だから何としても金を得なければならない。そこからくる惨劇か。

近松はしばしば、この世で地獄の苦しみを経験することで来世はその苦しみを逃れるという世界観を浄瑠璃の言葉の中に入れ込む。「身内は血汐の赤面赤鬼、邪慳の角を振り立てゝ、お吉が身を裂く剣の山、目前油の地獄の苦しみ」は、お吉の断末魔だけではなく、与兵衛がこの世ですでにこの地獄を作り出していることを示唆している。恩人を殺し金を奪い、継父も母も、一族を嘆かせ、誰からも同情されない悪人となる、という地獄に。

もとは、ただの弱虫、若者らしい見栄っ張りであったにすぎなかったのではないだろうか。それが、悪い仲間にそそのかされたにせよ、自ら望んだにせよ、自分の真実の姿から目を背け幻想の自分になろうとした結果、自分でも思いもよらない罪を犯すことになってしまった愚かさ。近松の筆はこれらを、最初から様々な伏線、仕掛けを張り巡らし、周到に積み重ねてこうした与兵衛の人物像を描き切っている。徳庵堤の喧嘩沙汰やお吉の世話の誤解、「河内屋内」での妹を脅して自分の思い通りにしようとする悪だくみも。そしてそれを、言葉の一つ一つに示し、象徴させ、納得させる。近松のことば、すなわちセリフの詞、地の言葉、近松自身の作劇世界の言葉の全体が表す重さ。この舞台は 人形の活躍に目が行きがちだが、こうした人間の救いようのない有り様を描く近松のことばあればこそ、 と深く思わされた。

■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学元学長。専門は哲学・倫理学。キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。

(2024年7月20日第2部『生写朝顔話』、第3部『女殺油地獄』観劇)