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国立文楽劇場

初芝居から、思いを胸に

森田 美芽 

正月の芝居興行を初芝居という。普段の劇場とは異なる華やぎに包まれる。国立文楽劇場では、餅花、にらみ鯛、鏡餅と、正月らしい飾りが華やかにロビーを彩る。そして今年は、鏡開き、お茶席も復活し、さらに気分が盛り上がる。とりどりの美しい和服姿の女性やしゃれた和服を着こなした粋な男性の姿を見るのも楽しい。

文楽の演目は、私たちの生きる現実と繋がっている。『近頃河原の達引』「堀川猿廻しの段」の、京の片隅とはいえ、赤貧洗うが如きあばら家、煤けた壁に擦り切れた畳まで見えるような暮らし。半世紀と少し前まで、日本の至るところにそのような暮らしと、その中で誠実に生きる人々がいた。猿廻しの芸人というささやかな身すぎに生きる、善良だが臆病な与次郎とその盲目の母。だが妹の恋人が事件に巻き込まれ、人殺しの罪を負ってしまう。その恋人に操を立てて共に死のうとする妹を、涙ながらに送る。そのはなむけの猿廻し、猿たちの愛らしさと三味線の華やかさは、妹の死出の旅の悲しみと表裏ゆえに、一層胸に迫る。この場に悪人はいない。なのに良い人が苦しみ、死なねばならないという理不尽。人生ではしばしば、良い人が苦しみを受けるという不条理が起こる。その不条理に、今の私たちはやり場のない怒りを感じるだろう。だがこの人たちは、それを静かに受け入れる。運命というにはあまりにいたわしい。だが、道理とはいいながら、どうしようもないこの世の義理に、死を選ばざるをえない人の悲しみと痛みを、包み込むようにその人を愛おしむ。この猿廻しの場面があることで、悲しみを忘れるのでなく、一層心に深く響かせる。そしてこの不条理な世にあって、この貧しき、無学な人々の何と温かく、人を受け入れる優しさに満ちていることか。文楽を見ていると、そうした人生の悲しみを知る人の心に沿うように出来ているのかと思う。

『伽羅先代萩』は「竹の間の段」から「御殿の段」「政岡忠義の段」「床下の段」。これもたびたび上演される名作であるが、どうしても千松に目が行ってしまう。忠義のために殺される子どもの哀れ。だが、息子を無残に殺され、ようやく遺骸を抱きしめて嘆く政岡の言葉「三千世界に子を持つた親の心は皆一つ」が一段と響く。その悲しみはいかばかりだろう。政岡を遣う吉田和生さんの後ろ振りがタイミングよく決まると、その感情が自分の内にも咳き上げる。鶴澤清治さんの糸で、また泣けてしまう。なぜ、この子がと言う思いは、どれほど深いだろう。生きていてほしい、全て母なる者の願いは、今も昔も一つである。それがわかるほど、そうした母の当然の思いも引き裂く、忠義の論理と悪とが明らかになる。

第3部の『平家女護島』「鬼界が島の段」。こちらは『平家物語』や能『俊寛』に由来し、さらに近松門左衛門ならではの解釈と人物を加えている。謀反の疑いで鬼界が島に流された俊寛、康頼、成経の3人。成経が千鳥を妻とした喜びもつかの間、都よりの使者の船が到着し、喜びと絶望のどんでん返しの果てに、俊寛は千鳥を船に乗せ、自らは島に残る決意をする。
壮絶としか言いようがない。この世での救いの希望を全て、自ら断ち切って残る孤独地獄。近松はこの世で受ける苦しみを、三悪道になぞらえる。餓鬼道、修羅道、地獄道。
続く『伊達娘恋緋鹿子』「八百屋内の段」でも、娘を諭す久兵衛が、坊主を落とすと等活地獄、無間地獄を引き合いに出すから、おそらく庶民の間にも、地獄の恐ろしさは広まっていただろう。飢える、渇する、寒さと眠れぬ苦しみ、それらをこの世で経験することが、こうした罪業の罰という意識が強かったと思われる。近松はそれを、俊寛がこの世で果たすことで救いに至るという世界観を示すが、それはいまの私たちにはただの苦しみでしかない。俊寛の孤独、誰にも理解されず、伴われることもない。それを思うたびに、ただ一人孤立した人の孤独を思う。

文楽は、つくづく、そうした人生の悲しみを知る人の心に沿うように出来ていると思う。私たちは劇場を出て、また日常に戻るけれど、そこで感じた思いは、ずっと私たちと共にある。芝居は昔の人と私たちを、その思いで結び付け、私たちに大切なものを思い出させる。私たちは人として、今日も、これからもその思いを抱き続けるだろう。忘れてならないもの、それをいまも私は、文楽の人々の技芸の中に、見出し続けている。

■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。

(2024年1月3日第1部『近頃河原の達引』、4日第2部『伽羅先代萩』、第3部『平家女護島』『伊達娘恋緋鹿子』観劇)