2023年、夏らしい夏。凄まじい暑さと、まとわりつくような湿気は大阪の夏の特徴だ。文楽劇場の今年の夏公演は、いかにも夏芝居という演目である。
『妹背山婦女庭訓』の四段目は、四月公演からの通しの続編。四月がいかにも春の桜満開の吉野であったのに対し、四段目は七夕の三輪の里。三輪山伝説を基に、三角関係の鞘当。だがそこに、国家の転覆を企てる巨悪に立ち向かう人びとの思惑が絡んでくる。そこで唯一、自らの思いを貫こうとする少女の純情が、事態を大きく変えるという、ありえない物語が展開する。
四段目の始まり、「井戸替の段」は笑いの一幕。舞台の奥に、三輪明神の神棚に苧環が供えられている。乞巧奠(きっこうでん=七夕行事の原型)の女の手業の上達を祈る祭りは、冷泉家の伝統によれば、天の川に見立てた白布をはさんで男女が和歌を取り交わす、恋の成就を星に願うものである。この美しい伝承が、悲劇の下地となるのは文楽の定番だが。
なのに舞台には、半裸の男たちが一斉に綱を引き、井戸掃除の後、盛大な酒盛りとなる。このギャップが何とも言えない。そして丁稚の子太郎の活躍。家主とのやり取りの「十種香」のパロディが楽しい。
「杉酒屋の段」でお三輪の登場。段鹿の子の振袖、かんざしの多いかしら、手習本は、まだ十五かそこらの少女の姿のあかし。だがすでに、隣家にやってきた求馬という男前の烏帽子折に恋をし、彼の心を得ているという自信と自意識が見え隠れする。その彼女が寺子屋から戻ってきたとき、丁稚の子太郎に、いきなり「忠義を言うて聞かす」と言われる。これは無論、忠義→忠臣→実は注進の駄洒落だが、彼女の周囲の人間関係を思うと、実に風刺の効いた駄洒落である。子太郎にとっては、求馬のもとに美しい上臈が通ってくることをお三輪に伝えるのはまさに忠義だが、その子太郎は、求馬を訴人しようとするお三輪の母や家主には不忠者ということになる。お三輪は一人前に、恋人に忠義を尽くそうとするが、その恋人は自分以外の女を引き入れる不忠者である。このモチーフが四段目全体を貫いている。
お三輪は上臈を追う求馬をさらに追っていく。布留の社(石上神宮)で求馬と橘姫(彼女は求馬にとっては敵である入鹿の妹)を見て、嫉妬にかられ奪い合う。道行として美しい旋律に載せて三人が踊る場面もあるが、お三輪には恋人を奪う女との闘いである。彼女にとってはこの恋敵が、どこの誰であるかもわからないし、しかしそれを許せない、それほど盲目的な恋である。橘姫を追っていく求女の着物の裾に糸を付け、苧環の糸を頼りに彼女は求馬を追っていく。糸は途中で切れるが、行き着いた御殿で、恋人が奪われたことへの怒りと嫉妬、さらに官女どものいじめが、彼女を「疑着の相」の持ち主に変える。
人形自体の表情は変わらないはずだ。だがここではいつも、彼女の凄まじい怒りと嫉妬の情念が、焔のように見える。それは鱶七(実は金輪五郎)の巨躯さえも乗り越えようとする。しかし、それこそが望まれた姿であったという悲劇。彼女はわけもわからぬまま、刃に倒れる。そしてその苦痛の中で、恋人が別世界の人間であることを知らされることになる。「あつぱれ高家の北の方」と呼ばれて喜んでも、彼女の心は依然として求馬にある。彼女の目には、天下国家も、国の忠臣も見えない。自分の恋する人、それも藤原淡海であると正体が知られれば、永遠に失われたものであるにも拘わらず。
だが私たちは、この少女に理屈抜きに感情移入する。自分に対し不実な恋人、平気で他の女と通じる軽さ、その意図が入鹿討伐のため、天下国家のためという大義であろうと、彼女にとっては、永遠にただ一人の恋人なのである。この純粋さ、ひたむきさが、陰謀と策略に満ちたこの物語を浄化していく。三段目で若い恋人同士が互いを思いやって死すべき運命を受け入れたことで両家の対立を和解させ思いを入鹿討伐に向けさせたように。
しかし最初から最後まで、お三輪の恋は独り相撲であり、成就するのは幻想の中だけにすぎない。求馬というより藤原淡海にとっては、それこそ目的への単なる手段にすぎない。だがお三輪の思いの中では、永遠の恋人としての像はびくともしない。思い込みというなら激しすぎる。しかしその思いこそが、人間を超えた悪として描かれた入鹿を倒すエネルギーになる、というのが「入鹿誅伐の段」で示される。考えてみればホラーな幕切れである。あるいはお三輪の恋の熱情こそが、こうした人間ならぬものを私たちに近づける唯一の道と言えるのかもしれない。七夕の星に託した願いは、かくして死をもって成就した。
『妹背山婦女庭訓』四段目の夏が、七夕の光に貫かれるのに対し、『夏祭浪花鑑』の夏は、凄まじい暑さ、それも湿気がまとわりついて、特に「長町裏の段」では晴れることのない陰鬱さを湛えている。
その中で、改めて「釣船三婦内」の面白さに気づく。この場は、「長町裏」に対し、やや大人しく見える。だがいかにも大坂らしい風情、やり取り、仕掛けがある。
まず磯之丞と琴浦の痴話喧嘩。この場の前に「内本町道具屋」があると、この内情がよりよくわかる。磯之丞は奉公先でも店の娘に手を出し、あまつさえ事故とはいえ人を殺してしまう。しかもその始末は自分ではできていない。こういういきさつを見ると、いかに磯之丞がだめんずかがわかってしまう。にもかかわらず、彼は「据膳と鰒汁食はぬは男のうちではない」などと強がる。周囲の人は彼を庇い、不始末を肩代わりする。そうした甘えが彼を形作っている。
三婦は、若いときにはさぞブイブイ言わせていただろう、という底力を感じさせる。いまでこそ丸くなっているとはいうものの、達引になれば今も若い者を簡単にあしらえる経験値や鍛えた腕力を感じさせる。何より、修羅場をくぐった迫力が段違いである。だからそんな磯之丞の若さもうまくあしらう力がある。
三婦女房おつぎ、この侠客の女房ならでは、度胸もあるし、夫の気性を誰よりも理解し、若い者には姐さんである。だが、少し判断が甘い。良いと思ったら突っ走る、それも夫の影響だろうか。後先考えず、お辰に磯之丞を連れて行かせようとしたり、琴浦を義平次に渡したり、彼女の失策が実はこの場の緊迫を生むのだが。
徳兵衛女房お辰は歌舞伎で見るのとは全く異なる。一旦預かると約束しながら、それを撤回されたときの三婦への迫り方、「一旦頼むの頼まれたと言うたからは、三日でも預からねばわしも立たぬ。アイ、立ちませぬ。サ、サヽ立てゝくだんせ、親仁さん」のきっぷのよさ。
でも、これは江戸前の鉄火肌とは少し違う。彼女が必死になるのは、単に一度請け合ったことを翻させるからではない。それは御主の大事だからである。備州玉島の恩義のある主人、玉島兵太夫の子息であるからには、何が何でも磯之丞を守らねばならない。だからこそ、彼を預かってくれという願いを、何が何でも引き受けなければならないのだ。もしここを引いたら、夫の顔が立たない。だからここで彼女を動かしているのは、単なる自分の意地だけではなく夫への愛でもある。だから自分の顔と引き換えにしても、磯之丞を預からねばならなかったのだ。
そう思うと、歌舞伎で、ここに「こちの人が好くのはここじゃない、ここでござんす」と胸をたたくのは少し違うように思える。二人は街の侠客、何よりも義理において筋を通さなければならない立場であり、そのための犠牲なのだ。三婦もそれをわかっているからこそ、「出来た」と称賛する。だがその後、少し寂し気に、「親の生み付けた満足な顔へ」と悲しみの表情を見せる、そのいじらしさがまた何とも言えない。
『夏祭浪花鑑』の魅力は、こうした市井に生きる人々の豊かな表情、人間性を実にリアルに描いていることで、その一つ一つが大坂の魅力とつながっている。その侠客たちの論理が、実は「忠義」にあるということが、「長町裏」での舅殺し、つまり「親孝行」の逆であることと対比される。またそれも、この物語の仕掛けであるように思う。
■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。
(2023年7月23日第2部『妹背山婦女庭訓』、第3部『夏祭浪花鑑』観劇)
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