なぜ愛し合う二人が死ななければならないのだろう。この『妹背山婦女庭訓』の「山の段」はよく『ロミオとジュリエット』になぞらえられる。でも、大序からこの物語を丁寧に見ていくと、むしろ政治悲劇であることがわかる。
大序は物語の全体の構図を見える形で描いている。向かって右に蘇我蝦夷子、左に中納言行主と大判事清澄、中央の帳から帝の寵愛する采女が現れる。蝦夷子の専横と藤原鎌足の腹に一物ありげな風情。この国が危ういパワーバランスの上に立っていること、そして蝦夷子が帝位を狙っていることを示している。ところがその蝦夷子を上回る巨悪としての蘇我入鹿が登場し、父さえも死に至らしめ、暴力で帝位を乗っ取るという暴挙に出る。なすすべもなく、大判事は入鹿に降参せざるを得ない。一方、大判事の息子久我之助は、采女を救うために鎌足に与することとなる。
親子で政治的に対立する立場になる。序段の若い男女の瑞々しい恋愛は、単に両家の対立だけでなく、政治の動きに巻き込まれていることが示される。そして悪の権化の入鹿に対し、盲目となり力を失った帝を戴く鎌足(ただし彼も善人ではなくしたたかな政治家である)の凄まじい水面下の争いのために犠牲になる猟師芝六一家の悲劇を描く二段目があって、この三段目の悲劇が論理的に構成されていることがわかる。
薄紅の桜が山一杯に広がる。その桜を押し分けるように、中央を川が貫く。桜の花の溢れる中でも、『義経千本桜』の「道行初音旅」のような、幻想的で陶酔感のある桜ではない。「川」は引き裂くものとして、容赦なく流れている。それを挟んで両側に、右手に大判事と久我之助の館、左手に定高と雛鳥の館。それぞれの思いがまるで弦楽四重奏のように響き合い、重なり合う。
雛鳥の思いは最も単純だ。愛する人と結ばれたい、なのに家の対立で会うこともかなわない。だが久我之助は雛鳥の短慮を諫めるだけでなく、父の置かれた立場を案じている。父が仕方なく入鹿に従ったこともわかっている。しかしその苦悩を雛鳥が理解しない。「心ばかりがいだき合ひ」とは言いつつも、二人の世界は微妙にすれ違っている。
大判事と定高は互いに意地を張り、子どもが従わないなら斬って捨てる、とは言いながら、実は自分の子どもたちがどういう選択をするかが見えているのではないだろうか。親としては命を救いたい、だが子どもたちはそれぞれ、愛と忠義に若い命を散らそうとしている。親として説得したとしても、それは貞節にも忠義にも反することはわかりきっている。そして互いに、相手の家の子がどういう選択をするか、想像できるのではないだろうか。ここの妹山と背山の掛け合いは、雛鳥と久我之助にも増して思いが深い。
そして定高が娘を説得する論理も、恋する相手に貞女を立てるには、相手を殺させないことである。それに一旦は得心したように見せても、雛鳥が不承知なのは、定高は百も承知のことなのだ。彼女はいつ、娘を斬る決心をしたのだろう。
背山では久我之助が切腹の覚悟を示す。政治的な判断としては、入鹿へ采女の居場所を明かさないためにはそうするしかないだろう。しかし父として思いはやるせない。「子の可愛うない者が凡そ生ある者にあらうか」という嘆きが胸に響く。そして悲劇のクライマックスが訪れる。互いに相手だけはとの思いやりにもかかわらず、結果として二人ともが死を選ぶ。否、相手だけでも救おうとするから、自らは命を捨てる、その潔さと一途さが若さの特権であるように。
そして親たちは、自分の子が助けようとした相手の子の死を知って嘆く。その犠牲が無になったからではなく、死をもって相手を助けようとした相手の子の思いを知って、その思いに打たれたのだ。領地争いを巡り対立する両家の遺恨は、その両家を継ぐはずであった子どもたちの犠牲によって和解される。家の存続を何より願った定高には最悪の結果であり、入鹿に偽りの忠節を尽くす大判事にはさらに立場を悪くする可能性がある。これらを超えた解決は、この段では示されない。鎌足の仕掛けたもう一つの入鹿誅伐の仕掛けが必要だ。それが明らかにされるのが、四段目の里娘お三輪の悲劇である。何の変哲もない田舎の少女が、ただ隣にやってきた色男に恋をしたばかりに、その男に裏切られ、「疑着の相」を現したために、その血を求めて殺される。
実は理不尽なのはむしろ四段目で、三段目は論理的にはすっきりしている。一途に恋の成就を願う娘と、家の存続を何より願う母という「女の論理」、それを超えた政治の中に身を置き、忠義と清廉を貫くために死を選んだ青年と父に見る「男の論理」、この二つが艶やかに対比され、それを繋ぐのが親子の情と忠義、という見事な結論。そこには超自然的な解決はなく、われわれ親世代の者は、あくまで清廉と純愛を貫く若者の悲劇に涙するのみである。
なぜ死ななければならなかったのかを問うのは、なぜ死なせてしまったかと、自らを悔やむ思いである。定高の嘆きは無論、雛鳥の思い、それを受けての久我之助の思い、それらすべてを受け止めてその思いを入鹿誅伐へと向かわせる大判事の重みを、今回初めて我がことのように感じることができた。二つの生首を抱えて決まるのは、現代人にはややグロテスクに思えるかもしれないが、二人の命の重みを感じさせられた。大団円はまだ遠い。夏にはこの四段目を通して、半二の描いた世界がどこに向かうのかを見届けることができるだろう。それを楽しみに、春に別れを告げよう。
■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。
(2023年4月8日第1部・第2部『妹背山婦女庭訓』、10日第3部『曾根崎心中』観劇)
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