撥が三本の絃を叩き、空間を切り裂く。リズミカルにならんだその裂け目から、いまだ名づけられていないなにかが「にゅっ」と出る。僕の内側の目は、その「にゅっ」「にゅっ」という出入りを、幕が閉められるまでのあいだじゅうずっと見ていた。目で音をきいていた、といっていいかもしれない。
はじめて「通し」でみて、「忠臣蔵とは、こんな話だったのか」と驚いた。衝撃をうけた。忠義を守る「いい話」でも、義に縛られた侍たちの「悲劇」でもなく、これは、ヤクザ映画に近い、とおもった。タランティーノやロバート・ロドリゲスが日本映画に求めている、スピード、猥雑さ、広がり、振り子のような行き交い、あらゆるものが予め、ここに用意されてある。「仁義なき戦い」「デス・プルーフ・イン・グラインドハウス」の種は、18世紀なかばの大坂でまかれていたのだ。
歌舞伎とはちがい、場面転換は、幕を切り落とすくらいに素早い。メインの登場人物がくるくると入れ替わり、くせのあることばを投げては去る、投げては去る。果てが知れないがたしかに目の前に現出している、この世界の広さ。まったく飽きることがない、そのリズムを、マシンガンの弾幕のように鳴り響く三味線がゆるぎなくキープする。
幕間にほっと息をつく。なぜみんな、こんなにも死に向かいたがるのか。まるで戦国時代に産まれそこなったのを悔やんでいるかのように、太平に流れゆく時間のなかで、憎い相手に、通りすがりのものに、おのが身に、銀色に閃く刀を突きたてたがる。突きたてられたからだは、その瞬間、人間の役者がする「演技」ではなく、世界からちぎれ、「ほんとうの死」に斃れる。「ほんとうの死」がごろごろ転がっているから、舞台には、まぶしい「ほんとうの生」が、朝露に濡れた森のようにみなぎっている。
ストーリーを追うのでない、ただ、文楽の時間にひたり、文楽の滴を頭から浴びる。義理や情よりも先に、まず、そこに「からだ」があること、動いていること、話していることの奇跡に目をみはる。口を結んだ人形だからこそ、ことばを越えて、いっそう大きく語りかけてくることがある。「にゅっ」「にゅっ」と見え隠れするものがなにか、通常のことばでは、言い表すことができない。ただ、それは「ほんとう」の感覚だ。自分が生き、そしていつか死ぬ「からだ」をもっていることを、文楽は大きな世界を旅してきた船乗りが黙って空を指し示すようなやりかたで、見ている僕たちに身をもって教えてくれているのだ。
■いしいしんじ
作家。1966年生まれ。京都大学文学部仏文学科卒業。2003年 『麦ふみクーツェ』で第18回坪田譲治文学賞、2012年『ある一日』で第29回織田作之助賞受賞。著書に、『トリツカレ男』『ぶらんこ乗り』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』『みずうみ』『四とそれ以上の国』など。現在「いしいしんじのごはん日記」をウェブで公開中。京都府在住。
(2012年11月22日『仮名手本忠臣蔵』(大序~六段目)観劇)
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