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文楽かんげき日誌

戦士の機能(人形浄瑠璃)

鈴木 創士

嘉肴ありといへども食せざればその味を知らずとは

国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るゝに

たとへば星の昼見えず夜は乱れて現はるゝ

『仮名手本忠臣蔵』はこんな風に始まる。冒頭の一行は儒学の「礼」に関する本『礼記』に拠るもので、うまい酒の肴も食べてみなければどんな味なのかはわからない、つまりどんなに尊い人の教えもそれを生きてみなければほんとうのところは分からない、といったほどの意味だろう。
  はじめから『仮名手本忠臣蔵』の著者たちはずいぶんきついことを言ってくれる。たしかに真理ではあるけれど、それを浄瑠璃の大夫の声だけがやってのけるのだから、腰をずらして座席に着いていた私はすぐさま、覚えがあるようなないような別の世の情景のなかにいて、まるで夢のなかを遠ざかってゆく舞台を見ているような気分になってしまう。三味線の激しいリズムも、自分があっちに行きかけたり、またこっちに戻ったりということをかき乱したりはしない。途中でお弁当をこっそり食べたとしても、うとうとしたとしても、それはそれで同じことである。

冒頭の続きはこんな感じのことを言っている。

太平の世がくれば、武士の忠義も勇敢さも何もかもが隠され、隠れてしまう。星は、昼間もちゃんと出ているのに見ることは出来ないけれど、夜ともなれば夜空を乱舞するように顕現するではないか、そんなものだよ、と。
  「たとへば星の昼見えず夜は乱れて現はるゝ」。いい一節だ。文章はこうじゃなくっちゃいけない、などと余計なことを客席で考えてしまう。

だけど、武士の忠義の話といっても、劇場から外へ出て本屋などに行きぱらぱら新刊の頁をめくってみて、現代における「武道」の精神とかなんとか色々とこちらが聞かされる日には、そうなのかなあ、とも思ってしまう。子供の頃に剣道をやっていたし、私の好きなフランス文学者のなかに、言語学の専門家でもある、惚れぼれするような柳生新陰流の達人がいるのはほんとうだけれど、それに彼は別格だとしても、それでもね、という感じではある。いまは人を切ることのない刀…。実際、日本では、もはや刀はそんな風には存在できない。そんな風に存在できないことが長く続くと、物の本質はやはり変質してしまうのではないか。それは江戸時代から始まったことだった…。私が単純なことを言ってのけているのは承知の上です。でもやはり武道というものは、刀が基盤になっているのではないのかな。そうじゃないっていう人もいることは知っている。ニューヨークの五番街のビジネスマンたちの間で宮本武蔵の『五輪書』が流行ったことだってあったのだし…。だけど、これこそ、ほらね、という感じではないですか。

「戦士の機能」というものがあって、武士たちはいつもどっちに転んでもおかしくないし、そのような立場に立たされてきた。彼らはつねにボーダーライン、境界線上にいる。美しいG線上のアリアはなかなか聞こえてはこない。むしろ悲惨な、つらい話ばかりである。いつの時代も同じようなものだ。『仮名手本忠臣蔵』は武道の話ではない。この仇討ち話には、ちょっとなあ、というお侍どころか、軽蔑すべき、嫌な奴も出てくる。不倫の話だってある。江戸っ子たちが、それに大坂っ子たちも、この話自体をとても喜んだに違いないことは想像にかたくない。胸が迫るだけでなく、下世話な成りゆきも含まれているからだ。その意味でも、文楽はまぎれもない民衆芸なのである。

でもこの人形浄瑠璃は、何しろあの忠臣蔵、あの仇討ちの話じゃなかったのか! …ちょっと待てよ。どこかが変だ。赤穂浪士の話じゃなかったのかと思った観客たちもきっといたに違いない。もちろん討ち入りは討ち入りであるが、実際に元禄に起こった事件は『太平記』の時代に移し替えられている。竹田出雲、三好松洛、並木千柳という三人の作者たちが、作家として生々しい事件をそのままの形で芝居にしたくなかったという事情もあるのかもしれないが、江戸幕府の手前ということもあったに違いない。こういったお江戸の事情はやはり江戸文化の特徴のひとつを生み出したはずである。もちろん、人形浄瑠璃なのだから初演当時も大坂の芝居だった。大坂のお江戸芝居はこうして一種独特の雰囲気と性質を持ち合わせたものとなった。

そういえば、私が観た日の文楽劇場も大阪のお江戸としてかなりごった返していた。金沢から来ていたはずの友人とも、きょろきょろ探してはみたものの、とうとう会えずじまいだった。前回の『曾根崎心中』を観た日の文楽劇場の様子とはひどく違っていた。演目が変われば劇場の雰囲気は変わるはずだし、またそうでなければならないのだと思う。外で起こっている政治の事情がそうさせていたなどとは私は考えていない。この場合は、違う。もちろん、その反対の場合もあるけれど。
  一緒に観に来た人とは、大人気もなくなぜか大喧嘩になった。芝居のはじまりの頃から剣呑な空気だった。「二度と一緒に文楽は見ないから!」、と彼女は言った。はたしてそれは私のせいだったのだろうか。

前回の『曾根崎心中』のときと何も変わらなかったのは、あの不思議な黒衣の存在と口上の声だけだったかもしれない。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2012年11月18日『仮名手本忠臣蔵』(大序~大詰)観劇)