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文楽かんげき日誌

なぜ、人形でないといけないのか?

玄月

芝居にしろ映画にしろ音楽にしろ、あるいはスポーツにしろ、ライブ(映画は映画館)で観るほうが断然いい、というのは通説らしい。家で寝っ転がってテレビやDVDを観るほうがいいという人も少なからずいるだろうが、そんなのはぐうたらで消極的で「生」のよさをわかってないと、ライブ派は一蹴する。

わざわざ足を運び、安からぬ金を払って「現場」に入る。数十からときには数万にもなる人間が、おなじ方向を向いて並んで座り、数時間おなじモノを観る。笑ったり泣いたり感心したり怒ったりうたた寝したり、感じ方は人それぞれだが、とにかくみんな何時間かおなじ方向を向いてじっとしている。必死になって取ったチケット、もらい物のチケット、デートやら接待やらただの暇つぶしやら、催し物への関心の強弱がそれぞれでも、途中退席しない限りおなじ空間でおなじ時間を共有する。

途中退席。

恥ずかしながら、してしまった。『仮名手本忠臣蔵』を通しで観られなかった。午前10時半から4時までの第1部で音を上げてしまったのだ。25分と5分の休憩入れて5時間半。第2部は4時半から9時までの4時間半。第2部は日を改めて、ということにした。

恥じることはないと思い直した。そもそも、第1部と第2部は別々にチケットが売られている。通しで観るぞと意気込んだ自分が浅はかだったのだ。それにこれは想像なのだが、昔は椅子席ではなく茣蓙や座布団の上に座り、弁当を食べながら、あるいはちびちび酒を飲みながら、疲れたら横になったり眠ったり、目当ての段になったら起こしてくれとまわりに頼んだり、そうやって文楽を楽しんだにちがいない。

ところで、「忠臣蔵」。文楽の演目にあることを知るずっと以前から、12月14日が「討ち入りの日」なのを知っていて、ドラマや読み物で親しんできた。何度もドラマ化されているが、私にとって大石内蔵助とは、里見浩太朗である。吉良上野介は森繁久彌。改めて調べると、里見浩太朗主演のドラマは1985年の年末に放映されていて、私は20歳、阪神が21年ぶりに優勝した年だ。

「忠臣蔵」の筋はだいたい覚えている。しかしそれは、『仮名手本忠臣蔵』を観るのに、あまり役立たなかった。それは、江戸時代に「忠臣蔵」が人形浄瑠璃として上演される際、当局に配慮して名前や時代設定を変更したことと関係ない。ドラマと文楽の大きな違いは、スピード感だ。ドラマでは視聴者を飽きさせないために、つぎつぎシーンが変わる。文楽にかぎらず舞台ではそれが不可能だ。

文楽では、ひとつの段(シーン)をじっくりと堪能する。三味線が響き、浄瑠璃語りが沁み入る中、人形は、たおやかに細やかな情を、よよっと伏せて深い悲しみを、大見得切って決死の覚悟を、世の中にふたつとないやり方で表現する。

なぜ、人形でないといけないのか?

人間では(たとえば歌舞伎では)表現しえない、なにかがあるからだ。

判官切腹の段、ぎりぎり間に合った由良助が刃を腹に突き立てた主君に、つつーっと歩み寄り、また後じさり、また歩み寄る、あのなんともいえぬ情感は、人間に演じられるのだろうか?

山科閑居の段、切腹し果てた本蔵のそばで、娘の小浪と力弥がおままごとのような祝言をあげる、虚無僧姿に身をやつした由良助が尺八を吹きながら去る、このようなカオスを、人間が演じていいのだろうか?

城明渡しの段、無言で(浄瑠璃語りがない)城から遠ざかる由良助。提灯の家紋を切り取って懐紙にはさみ、主君が切腹した刀を取り出し、大見得を切る。最後にひと言。

「はぁぁったと、にらんでぇぇぇぇ!」

たったこれだけの場面に、10分近くを費やしている。これは、無駄か?

由良助の無念と決意にうまく寄り添うことができたなら、これほど濃密な10分間はない。それは、なんと贅沢な時間だろう。

■玄月(げんげつ)
作家。大阪南船場で文学バー・リズールをプロデュースし、経営している。1965年生まれ。大阪市立南高等学校卒業。2000年「蔭の棲みか」で第122回芥川賞受賞。著書に、『山田太郎と申します』『睦言』『眷族』『めくるめく部屋』『狂饗記』など。大阪府在住。

(2012年11月13『仮名手本忠臣蔵』(大序~六段目)、20日(七段目~大詰)観劇)