「文楽……、恐るべし」とリアルに感じた時のことをよく覚えている。
もう七~八年も前だと思う。国立文楽劇場で『卅三間堂棟由来』を観た。柳の精であることを隠して平太郎の妻となっているお柳の主遣いは、吉田文雀さんであった。
卅三間堂の棟木に使うため、柳が切り倒される場面。斧が柳に入るたびに、お柳は苦しむ。「カーン」と斧が打ちつけられると、「ああ、ひい」という感じでお柳が煩悶する。「カーン!」「あああ……」。「カーン!」「ひぃぃぃ……」。「カーン!」「あうぅぅ……」(お柳の声は私のイメージ)。お柳はくるくる回りながら苦しむ。ものすごいエロス(生)であり、タナトス(死)であった。この世ならぬものを観た思いであった。この世ならぬ領域を、カンペキに表現し尽くしている。このとき初めて、フィギアで萌えるオタクの気持ちが、少しわかった。人形でなければできない表現があるのだ。間違いない。
今回の夏休み文楽特別公演での『曾根崎心中』においても、エロスとタナトスは充分に発揮されていた。もう、充分過ぎるほどである。「天満屋の段」で、床下にいる徳兵衛が心中の覚悟をお初に伝える場面。お初の足をノドにあてる徳兵衛。お初の白い足が、あまりにも悲しく、あまりにもエロティックである。「ああ、私もあの足をノドにあてたい……」と感じた人は、国立文楽劇場内で(私を含めて)相当数いたはずである。
よく知られていることであるが、『曾根崎心中』は初心者から文楽通まで幅広く楽しめる作品であり、世話物の代表的演目である。それだけではなく、『曾根崎心中』は前近代の日本的自我を味わうことができる。
たとえば、能や狂言にあれほど強烈な「自我」は出てこない。能・狂言では「個人」というものがもっと希薄であり、幽明の境界もあいまいである。しかし、文楽では近世を生きる「個人」が描かれている。ことに『曾根崎心中』のような物語では顕著である。
しかし、現代人から見ればどことなく登場人物の心情に違和感があったりする。そもそも現代のアートや芸能で心中物といったジャンルを成り立たせるのは困難であろう。やはり、文楽で表現される「自我」や「個人」のあり様は、近代自我と異なるのである。
文楽で描く世界は、中世に比べれば「自我」が明瞭であり、近・現代の個人に比べると「自我」がずっと淡いのである。中でも心中物は、そんなわずかな隙間に咲いた稀有な花なのである。今回の『曾根崎心中』を観て、あらためてそのことを実感した。
考えてみれば、人形は「近代以前の自我」を表現するのにうってつけかもしれない。生身の人間とは違って、人形はエロスとタナトスとの境界をやすやすと往き来する。さらに三人遣いとなれば、三人がかりで一人の自我を表現しているのである。自我の皮膜が破れやすくても不思議ではない。
文楽へと足を運べば、欧米型近代とは別モノの、日本型近世自我と出会うことができる。近代以前の自我に自分をチューニングさせることだってできる。そして、そのチューニングに最も重要な要素は、あの義太夫独特の節回しである。
文楽とのおつき合いが深まるにつれて、次第に義太夫の節回しがたまらなく魅力的に感じられてきた。 時には眼をつぶって、義太夫節だけを聞いたりもする。二~三百年前の大坂弁をナマで聞けるなんて、文化人類学や言語学から見てもすごいことではないか。
浄瑠璃の語りは、三井寺流唱導の系統に位置すると言われている。平安時代の末期、日本仏教の説法が発達・成熟した。そして、その頃に唱導二派と呼ばれる系統が確立されている。安居院流と三井寺流である。安居院流は、落語や講談や浪曲の源流である。一方の三井寺流は、現存していない。だから、どのような語りだったのか詳細は不明なのだが、一部の研究者の間では「浄瑠璃がその系統から生まれたのではないか」と考えられているのである。
義太夫の節のルーツは、はるか古代にまでさかのぼることができる気がする。あの節回しは、我々のDNAレベル的情感に直結しているのではないか。好きになると、情念の根っこから離れなくなる節や抑揚である。その意味において、『曾根崎心中』の道行きで「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と語られるところは日本文化の粋であると言ってよいだろう。さまざまな要素や系統が結集して成立したのが、あの「南無阿弥陀仏、南無阿弥~~陀~仏っっ!!」なのである。
さて、大夫さんの語りは、基本的にゆっくりである。一文字一文字、心を込めて、丁寧に語る。我々の日常で、これほど言葉を大切に使う時があるだろうか。この語りが、我々の内蔵時間を延ばしてくれるのである。
我々の社会は、肌感覚での時間をどんどん短くする装置ばかりが増えている。レジで客を待たせないシステム、スイッチやキーを押すとすぐに反応する家電などなど。我々の内蔵時間は短くなる一方である。そして、内蔵時間の幅が短くなるほど、人は些細なことを許容できなくなり、不寛容になっていく。肌感覚の時間を延ばしてくれる場は、現代社会において貴重である。だからこそ、カンのいい人は伝統芸能に足を運ぶのである。
文楽は大夫と三味線と人形が力の限りぶつかり合って成り立つタイトロープ的芸能である。この三業は、どれも強く主張する。それぞれが合わせておさえているのではない。それぞれが最大限主張した地平で、成り立っている。よく「大夫がピッチャー、三味線がキャッチャー、人形が野手」などと喩えられるが、どれがどの役割というよりも、とにかくあの配置がすばらしいと思う。正面に人形がいて、横から義太夫が聞こえる、このスタイルは視覚と聴覚の関係から言っても、まことによくできている。人間の身心のメカニズムから考えても、文楽の空間はたいへん心地よいはずである。
そして、文楽が発する刺激は実にウェットであり、かつ微かな波動である。これを受けとめる観客は、自分自身で咀嚼して、精神の奥底からじわっとわき上がってくるものを楽しむ。いとおしむ。観客の方が受けた刺激を増幅しなければならない。
文楽へ足を運んで、自分の中の振動増幅装置にスイッチを入れようではないか。
■釈 徹宗(しゃく てっしゅう)
浄土真宗本願寺派如来寺住職。相愛大学教授も務める。1961年生まれ。お寺の裏にある民家で、認知症の高齢者をケアするためのグループホーム「むつみ庵」の運営も行う。著書に『法然親鸞一遍』『キッパリ生きる!仏教生活』『おせっかい教育論』(鷲田清一氏、内田樹氏、平松邦夫氏との座談)など。大阪府在住。
(2012年8月4日 『曾根崎心中』観劇)
Copyright (C) Japan Arts Council, All rights reserved.