『曾根崎心中』をはじめて読んだのは小学校低学年の頃だった。
もちろん江戸時代に近松門左衛門によって書かれた原文が読めるわけはない。母親の与えてくれた漫画版日本の古典シリーズの中にあったのである。 好きだったのは『今昔物語』や『雨月物語』、『御伽草子』だったが、西鶴の『好色五人女』と『曾根崎心中』が幽霊や妖怪の話よりずっと異質な空気を放っているように思えたのを覚えている。見てはいけないものを見た気がした。
『曾根崎心中』は商人の徳兵衛が友人に金を騙し取られて、遊女のお初と心中する話である。子どもだった私には正直言って、よく意味がわからなかった。まず「心中」というものがわからない。恋すら知らないのだから当然のことだ。
男女が思い詰めた顔をして手に手を取り合って死に向かっていく。意味がわからないなりに切実さは伝わってきた。切実さの中には、ごく微かに、今思えば恍惚といっても良いものがあるのを感じた。お初は泣きながらも夢見るような顔で「徳さま、嬉しい」と徳兵衛を見つめていた。当時は知らなかった感情が溢れていた。わからないなりにうっすらと惹かれて、何やら恐ろしい、と思った。あの頃、知らないものは全て恐ろしいものだった。ただ、記憶には残った。
大人になって話の筋を理解し、三十になってから文楽に通うようになった。 そして、今回、はじめて観た。
大夫の語りに季節が夏だったことを知る。遊女屋をこっそり抜け出そうとして、お初が箒の先に扇をつけて行燈を消す必死さがほほえましい。二人が下女の打つ火打石の音に合わせて扉を開けるシーンでは、見つからないかと緊張して思わず息を呑んだ。漫画には描かれていなかった空気を肌で感じた。三味線の音色が情感を高めて、お初と徳兵衛の心情が迫ってくる。小さい頃はわからなかったお初の「徳さま、嬉しい」の感情にいつの間にか共感できてしまっている。
人形の表情は漫画と違って変わらない。涙をこぼすわけでもない。けれど、切々と語られる心情を聴きながら人形の動きを見ていると、確かに人形は微笑んだり悔しがったりするから不思議だ。生きていないものが生々しくもがいて死んでいき、性別のないものが艶めかしい色気を放つ。そして、同じ人形でも役によって全く違う顔に見える。
お初は凛々しい女性だと思った。まだ十九歳だというのに、一人の女として徳兵衛を慕っており強い芯がある。着物の裾に徳兵衛を隠して自分の店に招き入れる。徳兵衛を騙した九平次が徳兵衛の悪口を言いふらすと毅然とそれをたしなめ、徳兵衛に何かあれば一緒に死ぬと言い放つ。徳兵衛が死んだら可愛がってやろうと言い寄る九平次に向かって、「こりゃ忝いと言うものぢや、私を可愛がらしやんすと、お前も殺すが合点か。徳様に離れて片時も生きてゐると思ふてゐやるか」と煙管を吸いながら啖呵を切る場面はぞくりとするほどに格好良い。
反面、徳兵衛はちょっと情けない。呑気に友人を信じて大切な金を渡してしまい、騙され、くってかかるが返り打ちにされ、泣きながら身の潔白を証明してやると誓うものの、叶わず、すごすごとお初の元にやってくる。お初の足を抱きしめながら縁の下に潜み、九平次への怒りに身を震わせる。しかし、上述のお初の真っ直ぐな想いに感動し、またも泣きながらお初の足に縋りつく。そして、自分の覚悟のほどを表すためにお初の足を自らの喉笛に当てる。その情けない姿がなんとも色っぽい。
私は文楽では世話物が好きだ。そう言うと、よく「駄目男好きなの?」と聞き返されることが多い。世話物には情けない男が多く登場するからだと思う。すぐ泣くし、情にもろくて流されやすいし、うまくいかないことがあると不貞寝してしまう。けれど、なんだか色気がある。それに人間ってこういうところもあるよね、と思えてしまう。弱かったり情けなかったり、だからこそ人は愛おしい。特に恋愛が絡むと人はすごく格好悪くなったりする。 はっきり言って現実では駄目男は勘弁してもらいたいし、いくら好いていたって心中なんてしたくはない。それでも惹かれてしまうのは、物語はあり得ない願いをちょっと叶えてくれるものだからではないかと思う。
今回観て思ったのは、心中とは二人だけでしか行けないどこかへ永遠に行ってしまうことなのだと思った。互い以外を何ひとつ拠り所とせずに昏い場所にいく。ある意味、究極の恋愛である。実際にしたくはなくても、そんな深い絆を疑似体験してみたくはある。ほんの少し憧れる。 きっと、本当の心中なんて美しいものではないだろう。痛いし苦しいし、残されたものも気の毒だ。後片付けをする人の気持ちはあまり想像したくはない。けれど、文楽は人間ではなく人形が演じるので現実の肉体に付随する生々しさがない。安心して自己投影することができる。
とはいえ、私もまだ文楽を観はじめて三年である。義太夫、三味線、人形遣い、と見るところや聴くところがたくさんある上、未熟なせいで、細かいところはよく理解できてないことが多い。劇場に足を運ぶ度に新しい発見がある。 けれど、古典芸能とはゆっくりと知っていくものだと思っている。小さい頃、『曾根崎心中』がよくわからなくても記憶には残っていたように、言語化できなくとも心に響くものはある。そういうものがある日、「ああ、こういうことだったのか」と、ぽんと頭の中で咲いて人生に彩りを与えてくれるのだと思う。
古典芸能は待っていてくれる。『曾根崎心中』がはじめて上演されたのは1703年のことらしい。三百年も前だ。私たちが生きるよりはるかに長く残っている。
変わらぬものを何度も観て理解を深めていけることができるなんて、とても贅沢なことだ。移り変わりの早いこの現代でそれがどんなに稀有なことか。文楽に触れる度に震えるほどにそう実感する。
■千早 茜(ちはや あかね)
作家。1979年生まれ。2008年「魚神」で第21回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で第37回泉鏡花文学賞受賞。著書に『魚神』『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』『からまる』『あやかし草子 みやこのおはなし』『森の家』がある。京都府在住。
(2012年7月22日 『鈴の音』『西遊記』『曾根崎心中』観劇)
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