「最近の番組は、いいもんと悪いもんの見分けがつかん」
もうずぅーっと前の話だが、確か、聖闘士星矢の映画に連れてってもらった帰りに、母からそうぼやかれたことがある。確かに、母たちが若かった頃の、映画や漫画といったコンテンツでは、悪役はとにかく顔も悪そうだった。なので、俳優やキャラの顔を見れば、そいつがどんな性格で、ストーリーのなかでどんな役割を果たすか、おおよその予想はついたのだ。
ところが、僕らが子供の頃(といってももう三十数年前だが)から、善玉と悪玉の容姿が、双方、美形に書かれることが多くなってきた。
ソ連崩壊以来、世の中色々複雑になってきて、何事も単純な善悪二元論では解釈できなくなった影響もあると思うが、悪役商会の八名信夫さんみたいな、分かりやすい顔をした悪役は、漫画でもドラマでも見ることが少なくなった。
さびしい限りである。
自分は北野武のアウトレイジみたいな、毛穴からピュッピュッ、男性ホルモンが噴出してる感じのワルーイ顔のおっさんが好きなんである。そんなおっさんが殴ったり、銃を撃ったり、刀で切ったりするとたまらないし、殴られたり、銃を撃たれたり、刀で切られたりしたらもっとたまらない。
善玉には色白な色男、悪玉には色黒の悪そうな顔、そんな分かりやすい配役が残ってるのは、もう文楽の世界くらいしかないのかなと思ってたら、どうも文楽ですらそう単純なものでもないようだ。
それに気づいたきっかけは、最近見た、増村保造監督の「曽根崎心中」(1978)だった。
この映画、九平次役の橋本功がとにかくよいのですね。
ブルドックみたいな目と鼻、剣山代わりに花が差せそうな濃い眉。おまけに、畳一畳はあるどでかい顔である。映画ではその畳一畳が画面からはみ出しそうな勢いで、どの表情も素晴らしく憎々しく、心底から「何て悪い奴だ。とっちめてやる」という気にさせられた。
実はこの映画、徳兵衛役の宇崎竜童が、まだ若いせいもあっててんでダメなんである。
お初役の梶芽衣子も色気はすごいが、最初から最後まで、心中間際のテンションで緩急がない。三味線で言えば細棹だけ、それも一番高い音しか出とらんのですね。
主演がこれでは、本来駄作になってもおかしくないのだが、功演じる九平次の熱演がきわどく救っていた。井川比佐志の平野屋久右衛門が、九平次をボコボコにするクライマックスも実にいい。あそこで、映画を終わりにしてもよいくらいだ。徳兵衛とお初の道行は、エンディングロールにワイプで写しとけば十分だっただろう。
橋本功は残念ながら2000年に亡くなってしまったが、そのとにかく立派な顔を見て、何かに似ていると思ったら、文楽でよく見る人形だった。
だが、迂闊なことに名前がすぐに出てこない。
そこで、ネットで調べてみると団七という人形だった。(団七と橋本功さんの写真を見比べてみてください。本当にそっくりです)
大辞林の説明によると、「大団七と小団七の二種類があり、大団七は時代物の敵役や強豪な役に、小団七は世話物の端敵(はがたき)役に使用する」とある。また、文化デジタルライブラリーによると、もともと『夏祭浪花鑑』の団七九郎兵衛(だんしちくろべえ)の頭に用いられたため、そう呼ばれるようになったが、現在、団七九郎兵衛は文七の方が使われるようになっているという。
以下は、その理由を述べた吉田玉男師匠(初代)の言葉である。
「(団七は)義平次(ぎへいじ)のいたぶりにもじっと耐えて男を磨く侠客(きょうかく)です。団七のかしらではやはり映(うつ)りません。目元がきりりとし、口許もぐっと何かに堪えている表情をした文七でないと、悲劇味を描写できない。全身に刺青をしているところからも、薄卵の団七ではなく、白塗りの文七の首がふさわしい」
確かに、義理と孝行の相克に苦しみ、舅を殺してしまう団七九郎兵衛の悲劇を演じるには、団七の面構えは単純に過ぎ、強さのなかにも晦渋と思慮深さを湛えた文七の方がふさわしいようである。
そして、橋本功の顔から始まって、上記の玉男師匠の言葉に行き当たったとき、私は今回かんげきした「本朝廿四孝」で、物語の序盤に感じていた違和感が何だったのかに気付いた。
「私がお前の父親だ」的な、スターウォーズ展開の多い文楽のなかでも、本朝廿四孝はそのオンパレードで、今回の演目でも亡き夫山本勘助の名を名乗る老女のもとに、二人の息子、横蔵と慈悲蔵が暮らしているが、二人の正体はそれぞれ山本勘助(二代目)と、恐らく直江兼続がモデルの直江山城之助である。
歴史ファンからしたら「はぁ」かもしれないが、ここは文楽的おおらかさということで許してほしい。
で、母親は何故か弟の慈悲蔵に冷たく、兄の横蔵ばかりえこひいきする。
慈悲蔵は母親のために川魚を取ってやったり、竹やぶでタケノコを掘ったりと頑張るのだが、まったく評価されず、一方の横蔵は母に足を洗わせたり、弟嫁のお種を口説いたりとやりたい放題。
孝行者の慈悲蔵に対し、乱暴で横柄な横蔵は明らかに敵役である。
ところが、横蔵の人形の所作があまり憎々しくないのである。今回、吉田玉助さんの横蔵の遣いっぷりは見事だったのに。何でだったんだろうなぁ?と思っていたら、その鍵は人形のかしらにあった。
人形のかしらには複数あり、それぞれの役どころに応じて、配役されることは知っていたのだが、若い女とか、老女とか、敵役とか、豪傑とか、色男とか、おおざっぱにしか把握しておらず、豪傑顔でも複数種類があることには、今回、橋本功の顔をきっかけに調べるまで、思い当たらなかった。
横蔵が団七の顔だったら、弟を虐待したり、母親に無礼な口を利く姿が板についただろう。だが、同じ豪傑顔でもよりシリアスな陰影のある文七だったため、不自然な感じが鼻についたのだ。そして、これはもちろん演者側の巧みな仕掛けである。
役柄と人形の型を敢えて外すことで、横蔵の無礼で荒っぽい見せかけの陰に、全く別の思慮深く勇気に満ちた人格がほのめかされていた。それが、違和感の正体だったのだ。
つまり、人形のかしらの配役も既に物語の伏線なのである。
この違和感、いわば「?」はクライマックス、横蔵が実は武田信玄の家臣であり、足利幕府を守るために奔走していたことが判明した時、「!」になり、大きなカタルシスとなる。
勿論、それは、今回吉田幸助改め、五代目を襲名した吉田玉助さんの卓抜な演技の賜物でもある。
これまで、パンフレットでも正直さらっと見流していた「登場するかしら」だが、これからはもっと注意深く見ようと思う。そこに物語の大きな仕掛けが隠されているのかもしれない。
何年見ていても、新しい発見が次々に出てくる。これが文楽の魅力だ。
■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。
(2018年4月14日第一部『本朝廿四孝』「襲名披露口上」『義経千本桜』観劇)
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