今回かんげきした「心中宵庚申」は、享保七年(1722年)、近松門左衛門最晩年の70歳のときの作品である。
近松自身の体力の衰え、そして、翌年から徳川吉宗の享保の改革によって、心中事件を取り扱うことが禁止となるため、最後の世話物作品となる。
近松もそれを予感していたのだろうか。「曽根崎心中」からはじまる世話物の系譜を引き継ぎつつ、それまでと若干違った作風となっている。
まず、「曽根崎心中」や「心中天網島」では、若者と遊女との色恋がテーマだが、「心中宵庚申」は中年の夫婦愛がテーマである。「曽根崎心中」と「心中天網島」では、重要な舞台装置として出てくる遊廓も、「心中宵庚申」には一切出てこない。
何より、同じ心中でもそこに込められた意味合いが全く違う。
「曽根崎心中」と「心中天網島」では、望むにせよ、望まぬにせよ、主人公、徳兵衛や治兵衛は孝行に背を向け、義理を踏みにじって、死へとがむしゃらに突進していく。そして、どこに骨があるのやらという感じで、大して取り柄があるとは思えない男たちが、ただ死ぬことによって、世間や家族からの縁から解き放たれ、自由で近代的な自我を確立する。
だから、心中のシーンからは、凄惨ながらも、強いカタルシスを得ることが出来る。
一方、「心中宵庚申」の、主人公、八百屋半兵衛はとにかく実直で、徳兵衛や治兵衛と比べたらはるかに大人である。作中に描かれる彼の人物像は、実際的能力にも優れているようで、端的に言えば、ダメンズじゃない。
気づかいの人でもあり、彼はお千代の実家に頭を下げたと思えば、養家の姑の顔も立てようとし、最後の最後まで孝行と義理を尽くそうとする。しかし、結局、養家と婚家両方へ、筋を通すことは出来ず、その責任を取る形で、半兵衛はお千代を刺し、そして「切腹」する。
義母への孝行も公事ならば、義父平右衛門への義理も公事、そして夫婦愛ももちろん公事である。
徳兵衛や治兵衛が逃げまくっていた公事に、半兵衛は、真正面から逃げずに立ち向かった結果、死に至る。
つまり、「曽根崎心中」と「心中天網島」では心中の方向性が全くの正反対なのである。
孝行と義理からの逸脱、そして自我の確立の象徴が心中なのに対し、「心中宵庚申」では、孝行と義理を、まるで鎌倉惰時代の武士が主君に仕えたように、尽くした結果を心中として描いている。
そのため、作品のテーマとしては、むしろ後退していると言ってもいいのだが、近松は何故、晩年に、しかも最後の世話物にこんな作品を書いたのだろうか?
なんとなくだが、私は「曽根崎心中」と「心中天網島」で町民の倫理による心中を書いた近松が、「心中宵庚申」では武家の倫理による心中を描きたかったんじゃないかなと思う。
その証拠に八百屋半兵衛は、元武士ということになっているし、最後に命を絶つ手段も切腹だ。クライマックスで半兵衛が妻お千代にかける「刃物を見て俄に命惜しなったか、卑怯者め」の台詞も侍らしい。
実際、この劇が典拠とした事件で、半兵衛にあたる人物は、元どころか本物の安芸広島藩の武士だったようだ。
町民は「心中天網島」の紙屋治兵衛のように、義理と孝行に背を向けることが出来るけど、武士には出来ない。いや、出来ない存在でなければならない。
「心中宵庚申」には、そんな近松の思いが込められていたのではなかろうか。
実は近松は、大坂の陣で活躍した豪傑の祖父を持つ、生粋の武家の出である。
父はもともと吉江藩の重臣だし、その親族にも日本各地で武士として残っているものが多い。
そんな名門の子が、当時はいやしい仕事とされていた、芝居の道に進んだのは、幼少期に父が処世を誤って吉江藩を追われ、京で公家侍として働くことを余儀なくされたことがきっかけだった。
江戸幕府の圧迫の下、落剝した公家のもとでの生活は経済的には苦しかっただろうが、文化的には恵まれており、後に近松の芸能生活を支えた、古典文芸や歴史に関する素養はすべてこの頃に培われたものらしい。
そして、四条河原で師宇治加賀掾、盟友竹本義太夫と出会い、近松の才能は花開く。
その後の、文楽、歌舞伎界における活躍については、皆人知るところだと思うので詳述しない。
ただ、彼は作者としての名声をほしいままにしながら、心のどこかでかつて武士だった自分、本当は武士になるはずだった自分へのこだわりが捨てきれなかったのではなかろうか。
もともと歴とした武士だったはずの半兵衛を、武士の家から商家に養子に行ったという、座りの悪い設定に変えたのは、武士の家に生まれながら武士になれなかった、「まがひ者」の自分を、劇中の半兵衛に重ね合わせたかったのかもしれない。
「しやんと弓手の腹に突き立て、馬手へぐわらりと引き廻し、返す刃に笛搔き切り、この世の縁切る、息引き切る、哀れなりける」
短いセンスでたたみかけるような切腹の描写は、「曽根崎心中」のため息の出るような「道行」の文とはまったく違うものである。
ラスト、私は、我が血に溺れるように斃れる、半兵衛の姿に、公家、武士、町民、そして芸能いずれの世界にも、身の置き所を見つけられず、揺れ続けた近松のアイデンティティの危うさとみるとともに、「武士」近松の姿も見たのである。
【参考文献】
『精華町の郷土史(その1)』(精華町の自然と歴史を学ぶ会編)
『お千代・半兵衛供養墓』(大阪再発見著、
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage918.htm(外部サイトへのリンクです))
『お千代と半兵衛―「心中宵庚申」のモデルとして』(歴史~とはずがたり~、
http://sans-culotte.seesaa.net/article/112970773.html(外部サイトへのリンクです))
■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。
(2017年11月11日第二部『心中宵庚申』『紅葉狩』観劇)
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