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文楽かんげき日誌

閻魔様のまなざし

やぶくみこ

いまでは音楽家になったけれど、大学の頃は演劇の学科に所属していた。演じる方は授業でやる程度でほとんどは舞台音響の勉強をしていた。大阪にいた頃から演劇をたくさん見ていたわけでもないし、漠然と目の前で生で演じられるものが好きだった。
映画は見ないんですか、と聞かれることがある。どちらかというと映画を見るのはあまり得意ではない。演劇や文楽など生の舞台で演じられるものが好きだ。自分でもどういう理由からかはよくわからず、なんとなく過ごしていたのだが、最近よく聞かれるので考えてみた。
舞台で演じられるものは、目に届けられるものが限定されるということに最近気がついた。もともと舞台音響の仕事をしていたのだから、そんなことにとっくに気がついていてもおかしくないのだけれど。
いろんな作品があるから、ひとつに言うことは難しいけれど、演劇はあまり裏方がわからないように見せることが多い。舞台のセットはリアルだったり、抽象的だったりするけれどその場に建てられ、そこにあたかも自然に光が差しているかのように光があたり、音はそこに当たり前にあるみたいに効果的に鳴るから見た目には結構リアルだ。でもいろんなものは削ぎ落とされている。削ぎ落とされていく過程で、見せたいもの、強調したいことが現れてくるのが面白いと感じている。
舞台の裏方の仕事は退いたものの、いまでも舞台で演劇やダンスの音楽を作曲したり演奏する機会をいただくことが多く、舞台で演奏することに喜びを感じている。
文楽は、お人形を動かしている人が見えたり、目の前で物語を語っている人と三味線を奏でている人が見えていて、リアリティの裏側がはっきり楽しめるところだ。人形だから痛いわけじゃないのに、ものすごく痛くみえたり、悲しくなったり、大笑いしたりする。人形遣いによってこころが入っていくのがよく見える。いろんな人に支えられて一つのものができてることがよく分かる。その様子を見ていると私自身もいろんな人に支えられて生きていて、ありがたいなぁなどと同時に思ったりする。

この1月は第一部も第二部も鑑賞させていただき、両方ともとても楽しんだ。第二部を拝見した頃は、まだお正月の雰囲気も残る頃で、観劇にいらしている方の雰囲気がどこか年始の気配がしている。
文楽といえば、心中とか切腹のイメージがどうしても強いのだが、第二部での演目は死人がいない。親の愛をひしひしと感じる作品2本だった。
人特に「良弁杉由来」は音楽の印象がいつもと違ったのを覚えている。他の演目の曲と比べてやわらかい印象だった。曲全体がやさしいかんじ、というか、再会が約束されているのではないかと、予感させるような雰囲気だった。ずっと聴きたいと思っていた八雲琴の音が聴けたのもうれしかった。この演目では大きな鷲が飛んでくる。本当に大きくて、子供が攫われるシーンはあまりにも一瞬で、目の前で起きたことを受け入れるのにとまどう。人形だとわかっているのに、鷲がむんずと足でこどもを掴んで飛び去っていく姿はかなりショックだ。子供を攫われたお母さんは泣きっぱなし。もうずっと泣いている。このお母さんはきっとずっと頭が痛いじゃないだろうか、などと想像する。それが再会の時に絶望しきっていた悲しい涙が、信じられないような嬉しさの涙に変わる。良弁僧正が自分の息子かもしれないと明らかになるたびにすこしずつ泣く声が変わっていくのが印象的だ。

第一部の鑑賞で印象に残ったのは、「身代わり」ということ。「平家女護島」は急に都から船がくる。絶海の孤島に3年という月日を想像する。突然に都で待つはずの妻が亡くなったことや、千鳥は船には乗れないとかその1日にいっぺんに絶望するようなことが伝えられる。島の浜辺に大きな船のある舞台のセットから、最後に俊寛が取り残され、松にすがりなから船を見送る場面になると、松の生える岩と俊寛と遠くに小さく見えている船の姿で孤独が強調される。
「摂州合邦辻」は玉手御前の命をかけた大博打。肝の血が解毒に効くかなんて、そうなってみないとわからないだろうに、それを信じて、その方法でしか息子達を救えないと確信し、二人の息子を失わないための身代わりになる。見ていてなんだかずっと体が痛い感じがした。あわびの盃に自分の肝臓の血を注ぐ日がいつか来てしまうのことを玉手御前はずっと覚悟していたのだろう。その痛みは想像しがたいものの、どういうわけかかなりヒリヒリくる。人形だから痛くないのだろうけど、みてるとものすごく痛い。玉手御前の心の痛みやその決意、愛情みたいなものが肝臓あたりにピリピリくるのがわかる。玉手御前の絶命のときはふわりと静かに訪れ、舞台に人形だけがぽんと残される。急に軽くなる感じが見えるのが恐ろしくもあり、昇天するというのはこういうふわりとした感じなのだろうか、と想像する。恋する玉手御前も、狂う姿も、最後の場面ですらずっと姿が美しいので、終始目が離せない存在だった。
閻魔様の頭部だけが置かれているのもとても気になった。客席の方をまっすぐ見ている。劇中、この閻魔様にはほとんど関わらないのに、ずっと見られている感じがする。ずっと見られている感覚は劇に集中していると気にならないのに、ふとしたときに視線を感じるのだ。
視線を感じる仕掛けにハッとする。これはなくてはならない目線なのだと。

■やぶくみこ
音楽家、作曲家。1982年岸和田市生まれ。桜美林大学で音響を、文化庁在外研修員としてヨーク大学大学院で共同作曲を、インドネシア政府奨学生としてインドネシア国立芸大ジョグジャカルタ校にてガムランを学ぶ。ジャワガムランや打楽器を中心に様々な楽器を用い、楽器の本来持つ響きや音色、演奏する空間を生かした作品を提示。日本国内外で演劇、ダンス、絵画など様々なアーティストとのコラボレーション多数。京都で即興、共同作曲をベースにしたガムラングループ“スカルグンディス”を主宰。2013年より「瓦の音楽」プロジェクトを監修。京都在住。

(2018年1月23日第一部『花競四季寿』『平家女護島』『口上』『摂州合邦辻』、
18日第二部『良弁杉由来』『傾城恋飛脚』観劇)