「心」とはなにか?
この問題は、これまで長く文学や哲学のテーマだったが、橘玲さんの『「読まなくてもいい本」の読書案内』によれば、実はすでに進化心理学という、科学の枠組みのなかで解き明かされているという。
その答えは「心とはシミュレーション」である。
Aさんの誕生日には何を送ったら喜んでくれるかな?
B課長へ持っていく提案、どんなストーリーにしたら、納得してくれるだろうか?
Cのやつ、ここで白をきるだと?だとしたら、やつの持ち稗は……
想い人を懐柔したいとき、上司の協力を引き出したいとき、敵を屈服させたいとき、私達は絶えず相手の考えをおもんばかり、その内面で何が起きているか、あるいは起きるか?シミュレーションしている。そのシミュレーション装置こそが「心」だというのである。
この説明は腑に落ちる。例えば、何か悲惨な事件が起きた際、私達は「心ないことを」と言ったりするが、これは実は「相手がどう感じるかをシミュレートする装置が、正常に動いていれば、決してそんなことは出来ないはずなのに」という結構長い文脈を含んだ慨嘆だったのだ。
そして、このシミュレーション装置が人間に特に発達した理由は、人間が群れを成す社会的な生き物で、上位のオスの怒りを買わないよう顔色をうかがいながら、ライバルのオスを出し抜き、メスをゲットできたものだけが、遺伝子を残せたからだという。
要は、サル界の冷徹なマキャベリスト、カエサルや曹操みたいなものたちが、心を発達させたということなのだろう。
こちらの説明については、真実の部分もあるだろうが、何となく物足りない。これでは、炊煙が上がるのを見て「ははん、さては信玄のやつ、夜襲をたくらんでおるな。よし、その裏をかいて、こちらから攻めかかり、皆殺しにしてくれるわ」という人物が、心豊かな人ということになってしまう。
私は、「心」が発達したのは、人間の赤ん坊が異常に未熟な状態で生まれてくることも、原因の一つだったんじゃないだろうかと思う。
生れた当初の赤ちゃんは本当に脆弱な存在だ。
歩くことも、立つことも、時にはおっぱいに吸い付くことですら、ままならない。
そして、外界に対して出来るのは泣くことだけ。母親が、こんな弱い生き物を、無事自分でえさを得るところまで育て上げるには、何を感じ、何を望んでいるか、わずかな情報から読みとらなくてはならない。
「お腹すいたのかな?」
「暑い、それとも寒いの?」
「うんちがたまって気持ち悪いのかな?」
こうした、まだ物言えぬ赤ん坊との問いかけのなかから、「心」は生まれたんじゃなかろうかと思うが、どうだろうか。
さて、長い枕になったが、今回観劇した「良弁杉由来」。
息子の光丸を失い彷徨する渚の方の姿に、神というか宗教の起源をかいま見たような気がした。
茶摘み中に死別した夫の忘れ形見、光丸を大鷲にさらわれた渚の方は我を失い気が狂う。
「今の羽風はありや誰ぢや、鷲ぢや。エヽ忌まはしや情けなや。その鷲ゆゑにいとし子を、雲のあなたへアレアレアレ」
もともと人間に限らず、動物が死ぬ時期は、赤ん坊の頃に固まっている。先史時代から、赤ん坊を外敵の襲撃によって失うという事例は、何千、何万と数え切れないほどあったのだろう。
しかし、月並みな出来事だったとしても、その痛みは決して月並みなものではなかったはずである。チンパンジーですら、子供を失った母親がその事態を信じることが出来ず、死骸を離さず、生前のように負ぶって連れまわす事例が報告されている。まして、心というものを芽生えさせはじめた人類にとって、子供を失うことの衝撃は、到底耐えうるものではなかっただろう。
ところで、「心」の一つの特性は、一度動き出すと休みなく働き続けることだ。
対象も別に実在の人間でなくともよい。木でもいいし、海でもいいし、山でもいい。
だから付喪神なんていうものも出来る。
『付喪神絵巻(つくもがみえまき)』に「陰陽雑記に云ふ。 器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すと云へり」とあるが、要は、内面なんてないはずの道具でも、使い続けているうちに感情移入して、ありもしない感覚や考えをシミュレーションしてしまうということなのだろう。心を誑かすとあるが、何のことはない、実際のところは心の暴走なのだ。
そして、わたし達は付喪神のように、単なる「もの」の考えとか感覚、本来あり得ないものをシミュレーションした場合、それを神と呼ぶ。
よく日本は八百万の神の国といったりするが、心の特性を考えたらそんなことは当たり前で、古代ローマがいい例だが、大抵の国はもともと八百万の神の国だったのだ。
そして、この神というのは、渚の方のように子を失った母親の、狂気の最中に生まれたのではないかと思うのだが、いかがだろうか。
赤ん坊を育てるために、フル回転していた心は、急によりどころを失い、その余ったエネルギーを森羅万象すべてに発散する。そして、赤子の亡骸を抱いて荒野を彷徨した末に、闇夜を裂いてのぼってきた太陽に「あなた」と呼びかけたとき、はじめて神はあらわれたと思うのである。
光丸は、東大寺の大木の杉に引っかかっているところを、師の僧正に助けられ、成人した後、東大寺別当という日本の宗教界で最高の座につく。史実でも彼は、東大寺を開き、初代別当となっているが、彼を偉大な宗教家ならしめたのは、師の僧正のお情けや、内裏のお局方の助力などではなく、母の狂気の彷徨そのもののおかげによるものだろう。
物語の終盤、再会を喜んで涙する良弁、渚の方。
二人が抱き合う姿に、竹本千歳太夫の熱演、吉田和生、吉田玉男各師匠の技もあって、目頭があつくなった。
しかし、よく考えれば、抱き合っているのは近松言うところの「正根なき木偶」なのであって、私たちがそれでも涙してしまうのは、これまた心の暴走によるものなのである。
「心」は本当に厄介だ。
文楽や小説、漫画を楽しむことが出来るようさせてくれる一方で、国家や民族といった集団への帰属意識も、実は心が後押ししている。
わたし達は「心」によって、傷つき、結びつき、怒り、育て、だまし、そして愛し合う。
また、年も改まり、ついに平成も三十年になった。何もかもが変転していく世の中だが、そのことだけは、今までも、そして、これからもずっと変わらないままだろう。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
参考文献:『「読まなくてもいい本」の読書案内 ――知の最前線を5日間で探検する』(橘玲著、筑摩書房)/『ヒトの心はどう進化したのか』(鈴木光太郎著、ちくま新書)
■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。
(2018年1月20日第二部『良弁杉由来』『傾城恋飛脚』観劇)
Copyright (C) Japan Arts Council, All rights reserved.