思い返せば、「文楽を観に行きましょう」とお誘いを受けた瞬間から、なにか予感めいたものはあったのでした。
ひとたび出会ってしまったら、もう、元の自分ではいられなくなってしまう……。そんなインパクトの強い「人」「もの」「こと」との出会いが、人生には、幾度か用意されているようです。私にとってのそういった出会いのひとつに、この文楽という伝統芸能が、確実に組み込まれてしまっているような……。
その若干の恐怖感をともなった予感は、結果、見事に的中しました。観劇前後で、「わたし」ということばの意味が、奇妙な変容を遂げてしまったような気がしているのです。
「わたし」というものの実体のなさについては、自分なりに仏教思想に触れていく中で、ある程度、肚に落としていたつもりではいました。でも、文楽という、太夫、三味線、人形の三位一体の圧倒的な迫力を目の当たりにして、それはあくまで「ある程度」のものでしかなかったと気づかされました。
「わたし」には、からだがあります。「わたし」には、こころがあります。「わたし」には、ことばがあります。でも、からだだけを指して、これがイコール「わたし」であると言うことはできません。それは、こころやことばに関しても同じです。「わたし」という現象は、それらのすべてが複雑に組み合わさったところに、はじめて成立するのです。
……と、ここまでは、頭の中だけで、比較的容易に理解できるお話です。しかし、私があの日、舞台の上に見出したのは、そんな平面的な理屈を遥かに超えたところに立ち現れる、あまりにも生々しい「わたし」の姿でした。
文楽というのは総合芸術です。太夫は、その多彩な声色で、場面の情景、物語の背景、登場人物の台詞を語ります。三味線は、その重厚な音色で、刻一刻と移り変わる人物の心情を表現します。人形遣いは、三人の演者の息の合った動きで、人物の姿と心象風景を表します。それらが見事に重ね合わされたところに、立体的な「物語」が生まれます。
その「物語」こそが、「わたし」だったのです。
表現はまったく三者三様で、立ち位置もそれぞれ違うのに、どういうわけか、それらがどうしようもなく「ひとつ」として感じられる瞬間があって……。そこに、私は、ほかならぬ「わたし」の正体を見てしまった気がしたのでした。
「わたし」とは、あって、ないもの。なくて、あるもの。
幕が引かれたら、「物語」は終わります。太夫の語りも、三味線の音色も止みます。人形は、ただの人形に戻ります。「わたし」の姿は、夢まぼろしのように消え去ってしまいます。
それでも、「わたし」はいた。確かに、そこに、存在していたのです。
ああ、なんだろう。これって、もしかして、「世界」の秘密そのものなのでは……? 大げさじゃなく、そんなことを感じてしまいました。
文楽は、想像以上におそろしい伝統芸能でした。こんなにうつくしく、奥ゆかしく、それでいてこれ以上ないほどにあからさまに、「わたし」というものの、ひいては「世界」というものの構造を暴き出してしまう芸術に、私は、はじめて触れました。
知りたかったような、知りたくなかったような……。実は、観劇から一週間以上経ったいまも、私は、まだ、静かな混乱の最中にいます。あの日からずっと胸のうちにある、この、どこかヒリヒリするような、こころもとないような感覚は、しかし、決して不快なものではないのです。いまは、じっくり、味わってみようと思っています。
■小出 遥子(こいで はるこ)
1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部卒。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーの文筆家・編集者として活動。いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。著書に『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』 (角川書店)、『青虫は一度溶けて蝶になる:私・世界・人生のパラダイムシフト』(藤田一照・桜井肖典との共著、春秋社)がある。
(2018年1月19日第二部『良弁杉由来』『傾城恋飛脚』観劇)
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