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文楽かんげき日誌

新作文楽を見る

中沢 けい

井上ひさしの「金壺親父恋達引」を見た。文楽で新作を見るのは初めての経験だった。日頃は、字幕を見ながら言葉を理解している。古典だから、そういうものだと別段、不思議にも感じかなったが、字幕なしに耳だけで聞き取れる新作文楽で、改めて、ああなんて豪華なものだと感嘆した。大がかりな舞台で動きの大きな人形に魂が入る。浄瑠璃語りの声の豊かさ、三味線の軽快さ、どれをとっても、たっぷりとした感じがして、心から楽しめた。

字幕を目で追う古典が楽しめないというわけではない。それはそれで、充分、おもしろいのだが、今は使わなくなった言葉や古い言い回しを頭に入れるために、いささかエネルギーを傾けているのだ。それがよそ行きの晴れ着をたくさんの紐で括り付け、重い帯を結んでもらった感じだとすれば、新作文楽は、家に戻って普段着に着替えた感じだと言えばいいだろう。ああ、のびのびすると手足の伸ばしているあの感じだ。こういう新作文楽を夏休みだけではなく、もっと見たい。

床の間に「質素倹約」の文字を掲げ、庭に金の入った壺を埋め、ひたすら蓄えが増えて行くのが人生の楽しみという強欲爺が、なんとなくかわいらしく見えるのも人形ならではのことだろう。なかなか生身の人間ではそのおかしみはでない。古典劇では「金が敵」の悲劇となる恋が多いが、モリエールの守銭奴を翻案したという「金壺親父恋達引」は喜劇である。浄瑠璃で喜劇が語られるのも、のびのびとした気分を味わう要素になっている。娘を新興の商人に嫁がせ、自分は持参金付きの若い女を後妻にもらおうという親父の魂胆はことごとく裏切られてしまうのも、なんだかかわいそうだ。

芝居を見ている間、しきりに劇場のどこかに井上ひさしさんがいるような気がしてならなかったのは、新作が上演される時はかならず井上さんが劇場に姿を見せていたのを知っているからだ。新宿の紀伊国屋ホールで新作が上演された時には、芝居がはねたあとの打ち上げにお供させてもらうこともあった。二丁目の焼き肉屋の座敷で大勢の宴会だ。芝居を書く作者というものは、いろいろな人の面倒見がよくなければ務まらないものなのかもしれないと、打ち上げにお供にしながら、井上さんの顔を遠くから眺めていた。朗らかに談笑に興ずる井上さんの周囲には、やはり朗らかの人々が集まっていた。

今にして思えば、もう少し近くへ寄って、井上さんとよもやま話をしてみたかったような気がする。私はこう見えて、観客席と舞台の間には越えられない谷があるような感じが拭えず、打ち上げの席に誘われても、作者には近づけなかった。その引っ込み思案が、井上ひさしさんが亡くなった今になると、なんとも口惜しい。どうして生きて口が利けるうちに、もっと近づいてその声に耳を傾けておかなかったのだろうと日頃の後悔があるから、なおさら、文楽劇場のどこかに井上さんはいるのではないかという気がしてならないのだ。

近松門左衛門の時代は、作者や演者そして観客の関係はどんなものだったのだろう。今では古典となっている作品もその当時は新作だったわけで、観客が新作に大喜びするのが作者や演者に直接伝わるというようなことはあったのだろうか。あったような気がする。「金壺親父恋達引」の大団円では、新興の商人は、実は駿河灘で落命したと信じられていた男だと判明。けちん坊の因業親父の娘に恋をした店の手代はその息子、また因業親父が後妻にのぞんだ娘もまた実の子と判明して、めでたしめでたし。親子再会の大団円。こういう幸福な幕切れが気持ちよくなったのは、見ているこちらが年齢(とし)をとったせいかもしれない。 幸福のおすそ分けに素直に預かれる気分が胸の奥底からじわじわと湧いた。

■中沢 けい(なかざわ けい)
作家。法政大学教授も務める。1959年生まれ。高校在学中に書いた「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞。1985年『水平線上にて』で野間文芸新人賞受賞。著書に『野ぶどうを摘む』『女ともだち』『豆畑の昼』『さくらささくれ』『楽隊のうさぎ』『うさぎとトランペット』など。千葉県出身。

(2016年7月25日第三部『金壺親父恋達引』観劇)