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文楽かんげき日誌

西洋演劇と文楽の違い

黒澤 はゆま

今回のかんげきは井上ひさしさんが本を書いた「金壺親父恋達引」。

正直に言うと、現代作家と伝統芸能のコラボには、文楽に限らず「え~大丈夫なの?」という感じで抵抗があった。どれがとは言いませんが、累々たる失敗作の山を幾つも見てきましたからねぇ、ええ。

伝統芸能には伝統芸能の得意とする射程があるし、現代劇には現代劇で別の理念がある。1+1がケミストリーを起こして2以上になるどころか、よいところを打ち消しあってゼロになりました、なんて例はザラなのだ。

しかし、7月に森ノ宮ピロティホールで見た三谷幸喜さんの「其礼成心中」が本当によい作品で、私の偏見というか食わず嫌いを簡単に吹き飛ばしてしまった。

三谷幸喜さんが現在、本邦随一の喜劇作家なら、井上ひさしさんもまた生前ユーモア小説の名手、名戯曲家として名を馳せた方。あの名作人形劇、私も子供の頃夢中になって見たひょっこりひょうたん島の作者でもある。古典人形劇の文楽とは相性もよさそう。

で、この「金壺親父恋達引」だが、もともとの原作はフランスの作家モリエールの「守銭奴」。当然、舞台はフランスで、これをひさしさんは守銭奴の親父とその子供たちの結婚話という大筋は変えぬまま日本に移植している。また、もちろん、人間の演じる演劇用のものだった。

つまり、

場所:フランス→日本
表現方法:劇→人形劇

といったように、場所・表現方法、二つの方向で、この作品は変換がされている。一つだけでも難しいのに、これは表現者としての腕が試されるところだ。

さて、ひさしさんや、文楽の師匠たちはどう料理したか?

期待と不安入り混じりながら、観劇したが、結論から言うと実にいいアレンジだった。

ここで引き付ける、ここで落とすと、意図の分かりやすい演出になっていて、とにかく分かりやすいのだ。

金左衛門が自分が大貫親方を介してお金を貸そうとしている相手が、我が息子とも知らず、「半年も保つまい老いぼれ」とか、「父親がめでたくなればすぐにも身代そっくりその男のものになる」とかの親方の話を面白がり、「それならわしもその老いぼれ様がはやくおめでたくなるように、観音様に願でもかけるか」と返したくだりは最高。

桐竹勘十郎師匠の人形も、ガリガリ亡者ながら、どこか滑稽味があって、憎み切れない金左衛門のキャラクターを見事に表現出来ていたと思う。

1時間ちょっとと他の演目と比べれば随分短い「金壺親父恋達引」だったが物足りなさを感じることなく、大満足で見終えることが出来た。

ただ、一方、西洋と日本の舞台演劇の筋運びにおける思想の違いも感じた。

カメラで言えば、「金壺親父恋達引」は主役にしっかりフォーカスされているのに対し、近松をはじめとする伝統文楽では登場人物全体にパンされている感じだ。どこに着目するかは観客次第。

また、西洋の演劇は、一シーン、一シーン、笑いなら笑い、涙なら涙、一つ色に塗りつぶされているのに対し、日本の伝統文楽は、笑いと涙はグラデーション状にひとつらなり。笑った顔のまま息を呑み、涙も乾かぬうちに笑う。

そこが伝統的な文楽の独特の不穏さと魅力につながっていると思うが、今回の「金壺親父恋達引」にその不穏さはなかった。かろうじて、ラストの子供たち皆から去られ、金壺を一人抱く、金左衛門の姿に笑いとともに悲哀を感じた程度だろうか。

折角、西洋演劇を文楽に引き写したのなら、文楽の不穏さもまた生かして欲しかった。我がままが過ぎると思うが、これは一観客としてのわたしの希望である。

とはいえ、文楽という表現技法が、西洋演劇をも消化しうる懐の広さとポテンシャルを持っていることを知りえたのは、今年の夏の大きな収穫でもあった。今回も有意義なかんげきでした。

■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。

(2016年7月30日 第三部『金壺親父恋達引』観劇)