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文楽かんげき日誌

文楽の「結構」

鈴木 創士

浄瑠璃、三味線、人形という文楽の三種三様の「結構」を考えてみると、やはり文楽は世界のどこを見回しても他に類をみないものなのでしょう。文楽を見に行けば、背景のある舞台があり、床があり、観客席があるのが普通なのですから、これがどれほど特徴的なものであるかを普通われわれは意識したりはしません。誰もが文楽は文楽だと思っています。でもよくよく考えれば、舞台芸術という観点からしても、何百年も続いているこの不思議な伝統は、この結構それ自体がなにごとかを語るもっと雄弁なものだという気がしてきます。

まず浄瑠璃。最初に浄瑠璃があったのだし、一緒に人形が遣われるようになったのは歴史的にその後のことと言いますから、やはりまずは浄瑠璃です。人形も三味線もそうであるように、浄瑠璃もまた独立独歩の芸術なのでしょう。 太夫が語ります。語られるのは独特の詞章、文句であって、それ自体は歌ではないといいます。歌うのではなく、語るのです。それは物語られます。ヨーロッパの吟遊詩人だって歌うじゃないかと文句を言われそうですが、太夫は吟遊詩人ではありません。もともと謡曲の息づかいが音曲のなかに取り入れられているのですから、歌のように聞こえることがあっても、それが完全に歌でないのは、語られるのは「詩歌」ではなく、文字通りの意味で「文章」だからです。そういう意味です。 例えばこんな感じです。

「……マア何はともあれソレ累、奥でゆるりとあがつて貰わしやれ」
と濁す言葉を
汲み取って、累もしらふ白豆腐、味もあへもの口落とし
「さあ皆様」 と勧むれば……                      (今回観劇した『薫樹累物語』より)

舞台では人形が演じています。人形は口がきけない。そうであれば、普通の考えでは、人形遣い、もしくは黒衣が科白を語ればいいということになりますし、実際、そのような人形劇は珍しくありません。しかし文楽は違います。浄瑠璃が人形よりも先にあったということもあるのでしょうが、この伝統はかたくなにそのまま変化を加えられることがなかったようなのです。 つまりここで語られているのは、人形の「科白」だけではないのです。太夫が人形になりかわって人形が語っていると想定される科白を代弁するならば、そして人形が身体をもった俳優と同じように振る舞うために俳優の機能を踏襲するためであれば、あるいは太夫が西洋演劇でいう科白をがなり立てるプロンプターのような役目を担うためであれば、人形が語っていると暗黙の了解のうちに見なされているはずの「科白」を喋るだけでいいということになります。しかしそうではありません。太夫の語る詞章は、登場人物=人形の仕草や、人形つまり登場人物の振舞いや成り行きの描写や、映画でいうナレーションまで含んでいます。その叙事詩性は韻文というより散文であり、たいていは「科白」を、あるいはその対極にある「沈黙」を尊重している舞台芸術ということからしても、ちょっと比類のないことです。

結論を言ってしまえば、私には浄瑠璃は台本を前提とする戯曲ではなく、むしろ「小説」そのものであるように思えるのです。「小説」が最初から最後まで、それも他の追随を許さない独特の語り口で朗読されるようなものです。もちろん人形浄瑠璃に近松門左衛門の「文芸」が介在しなければ、こんな風にはならなかったのでしょう。そして言ってみれば反写実的な太夫の特異な「語り」がなかったならば、この「小説」はむきだしになり、聞いているほうはきわめて妙な感じがしたに違いありません。でもこの義太夫節の独特の語り口を別にすれば、私の知る限り、こんなことは現代のきわめて前衛的で特殊な映画のなかでしか行われていませんし、とても不思議なことだと思います。 そしてこれは歌われているのではないとはいえ、「音曲」なのですから、もちろんここには別の意味での「歌」さえも入り込んでいます。三味線も聞こえます。しかも三味線は伴奏であって、伴奏でないようにも思えます。やはりそれ自体独立しているかのように聞こえるときがあるのです。この語り口と三味線があるから、浄瑠璃は「小説」を朗読しているようには思えないだけなのです。演目が違えば、当然のことながら「小説」といってもいろいろですが、浄瑠璃は形式的に「小説」が語られているという点で現代的であり、じつに独創的であるとさえ言えるでしょう。

人形はどうなのか。文楽の人形の歩き方はナンバ歩きといって、片側の手と足を一緒に前に出す歩き方です。いまわれわれが無意識にとっている歩き方とは違います。これは日本人が農耕民族だったからだという意見もあるようですが、実際のところ、どうしてなのか私にはわかりません。しかも人形の足は地についていません。浮いています。とはいえ、たしかに人形は「写実」的な動きをしていると言っていいのでしょう。しかも文楽の人形の繊細にして情動的な動作は明らかにヨーロッパのマリオネットなどの動きや所作とは違って、人間の動き、とりわけ日本人の身のこなしにかなり近いものだとは言えるでしょう(恐らく文楽と同じくらい古い日本のこれまた民衆芸である糸あやつり人形などを見ても、とにかく日本の人形の動きは非常に繊細です)。 しかし「写実」というのは何だかよくわからないものです。人形の動きには明らかな「誇張」があります。この誇張は必然的なものなのでしょうが、必然的であるが故に、これはひとつの「形式」になり得ていると言えます。これらの「写実」には明らかに「形式」というものがあり、この「形式」というやつは何かしらわれわれの感情の「底」に触れるものであると同時に、それでいて幻覚にとらえられるようにわれわれをわれわれの「写実」の外に連れ出してしまいます。「形式」はそもそも意味を欠いていて、空っぽの何かです。この「写実」はじつは何百年も続いているというか、何百年も前のものかもしれないのです。文楽では時間の流れ方が違うのです。これはロシア出身のある著名なヘーゲル学者などに言わせると、世界の歴史と文化からしてもじつに驚くべきことであり、最も先進的なスノビズムのあり方らしいです。

人形。なぜ人形なのでしょう。なぜなのかはわかりませんが、生身の俳優とは違って、人形にしかできないことがあるように思います。人形を遣っているのはもちろん人形遣いの人たちです。それはわかっています。でもたぶん誰もそんな風には思えない瞬間があると思います。それなら人形は誰に操られているのでしょうか。哲学的、形而上学的に言って、人形を操っている何かがいるのでしょうか。あるのでしょうか。人ではなく、操っているのは何かの存在、それとも非存在なのでしょうか。人形はまるで操られてはいないかのように動いています。人形のほうこそがすべてを操っているのでしょうか。人形の動きを見ていると、そんな風に思ってしまいます。これは芸術的であると同時に哲学的な問いです。

「トーザイ」という黒衣のかけ声とともに、われわれは日常のなかに潜むひとつの幻覚の幕開きに立ち会います。操られているのは誰なのか。そこでほんとうに語っているのは誰なのか。人形たちがざわめいています。それともただ観客の向こう側でわれわれを鏡のように映す劇がまるで夢幻劇のようにゆるやかに進行しているだけなのか。 文楽の「結構」はそのうちのどのひとつが欠けてももはやすべてが成立しない態のものですが、それはわれわれ観客にどんな風に見てもかまわないという特権を授けているように思います。これは文楽の「緩やかさ」だと思います。そしてこの「形式」が与える幻覚は、不条理で血なまぐさいこともあるひとつの叙事詩的散文から立ち上がったものであり、それはいつも日常の雑事や憂さや雑踏とともにあって、その点では、飯を食ったり酒を呑んだりしながら観劇していたはずの江戸時代の観客である大坂の庶民と、われわれはそんなに違いがあるとは思えないのです。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、『分身入門』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、『ヘリオガバスルあるいは戴冠せるアナーキスト』、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2016年7月30日第二部『薫樹累物語』『伊勢音頭恋寝刃』観劇)