神といっても「機械仕掛けの神」である。Deus ex machina. ラテン語で「デウス・エクス・マキナ」。古代ギリシア演劇の発明だが、紀元前からあるこの手法はわれわれにも馴染みのないものではない。芝居の話がこんがらがってきて、錯綜のあまりわけがわからなくなったとき、とつぜん登場して、話の筋を解きほぐす、というよりはむしろ断ち切り、解決に導く「神」。物語はこの神によって一応の収束を見せることになる。めでたし、めでたし、というわけだ。悲劇作家のアイスキュロス、ソポクレスにも見られる手法だが、エウリピデスが特に好んだようである。 なぜ「機械仕掛け」なのかは諸説あるようだが、機械仕掛けのように、つまり判で押したようにこの神が都合よく登場するからなのか、それともそれ自体が舞台装置のようなものであるからなのか、つまびらかではない。 ギリシア人たちではなく、われわれにとって一番分かりやすく言えば、ドラマの最後近くにやにわに登場する水戸黄門の印籠のようなものだと言っていいかもしれない。「この紋所が目に入らぬか!」「ははあ」。全員がひれ伏し、はい、これでおしまい、というわけである。水戸黄門なら、この印籠はたしかに水戸黄門のものなのだから、まだ話の辻褄があっているが、もっと唐突な、都合がよすぎて不都合極まりないような「機械仕掛けの神」、筋にはほとんど無関係な(芝居の上のことだが)「ほんもの」の神がいきなり登場して出し抜けに裁きを行うということもある。
今回、『妹背山婦女庭訓』をはじめて観たのだが、芝居が進むにつれて、この芝居にははたして「機械仕掛けの神」が登場するのかと余計なことをずっと考えてしまっていた。登場しないことは私にもうすうす分かってはいたが、なぜそんな無粋なことを考えてしまったかというと、芝居の途中も、見終わったあとも、主人公が誰なのかよくわからなくなったからである。体調が悪いという問題もあって、私は最初第二部を観て、また別の日に第一部を観るという邪道を地でいくようなことをやってしまったので、第二部を観終わったあと、第一部を観ていなかったものだから、逆にそのことがずっと頭にこびりついて離れなくなってしまった。それに第一部を観ても、第二部観劇後のもやもやは解消するどころか、さらにひどくなった。それとも私は注意散漫なあまり単にこの芝居がわからなかっただけだったということなのか。そうかもしれない。
主人公がはっきりしないのであっても、話は断ち切られるか、きっと収束はするのだろうが、それにしても…。もちろん話の錯綜という点では、この芝居にかぎらず、文楽では珍しいことではないはずであるが、何しろ長いこの芝居は、それに反してスペクタクルという点では随所にかなりめりはりのあるシーンがあるのだし…。 おまけに今回のパンフレットの巻頭の文章を読んでみると、作家の橋本治氏がかつて本作の「山の段」を評した武智鉄二のことを引き合いに出して、この段の主人公らしき役柄を問題にしていたのである。文楽に詳しい橋本氏の言うことだから、とても聞き捨てにはできない。橋本氏が読んだ本のなかで、武智鉄二は、「この場の中心となる一番立派な人物は久我之助」であるから、そのことに理解のない当時の役者たちに怒りをぶつけていたと言うのである。少しはしょって言うなら、「一番立派な人物」とは、別の言い方をすれば、これが「山の段」に限るとしても、主人公ということである。
もちろん物語の全体から言えば、そして説話論的に言えば、この芝居の主人公は、悪人である蘇我入鹿であることは間違いないだろう。でも最後の浄瑠璃作家だったと言えるかもしれない作者近松半二がつけたタイトルは『妹背山婦女庭訓』である。女性の教訓。これが女性による女性のための教訓であれば、主人公はやはり女性でなければならないということになりはしまいか。 女性の主人公たち……。 大判事の子息、久我之助と恋仲の雛鳥。ロメオとジュリエットのように二人の家は遺恨があるらしい敵同士である。最後は、といってもこの段の最後であるが、久我之助の切腹、雛鳥の自害とも受け取れる死で終わり、介錯された首が二つ並ぶことになる。「妹山背山の段」の悲劇を眺めれば、雛鳥はじつに脇役などではないが、全体の話の筋からすればこれはやはり一エピソードでしかないのかもしれない。これが第一部。 第二部はどうなのだろう。じつは藤原淡海その人であることが後でわかる、一見イケメンの女たらしに見える求馬、その彼にぞっこんであるお三輪。庶民の出身であるお三輪は、(蘇我入鹿征伐のために)話のひとつの要ともなるのだが、切れてしまった苧環の糸を手にし、嫉妬に狂う「疑着の相ある女」である。女性はお三輪だけではない。求馬を慕うもうひとりの恋敵、結局はお三輪を差し置いて求馬を勝ち取ったように見える橘姫もいるではないか。彼女はじつは蘇我入鹿の妹であるにもかかわらず、求馬のために兄の入鹿を裏切るのである。第二部最後の「金殿の段」を観ると、舞台の人形の動きや表情からすれば、お三輪がかなり目立つ存在であり、たぶん観劇した女性たちにとってもお三輪へのある意味での共感はひとしおだったのではないか(一応男性である私自身はそうではなかったが…)。でもここでも話の筋からすれば、お三輪と比べても、橘姫は脇役とも言えないのである。
男の登場人物については、ここで詳述したいという気はもう私に失せているが、蘇我入鹿以外にも、例えば、第一部の「蝦夷子館の段」に登場した入鹿の親父である曽我蝦夷子を観たとき、話の筋を知らなかった私は(話を知っている芝居も知らない芝居も、観劇する前に下調べをしたり、パンフレットを読んだりすることはほとんどない。芝居を見る私は江戸時代のひとりの大坂の庶民である)、人形の存在感からして、主人公は彼なのかと勘違いしたほどである。 いままで挙げた人物のなかでも、久我之助も主人公と見紛うところが多々ある。だがその父、大判事もいる。作者になりかわって不埒な想像をすれば、この人は話を別の方向にもっていく可能性を秘めた役所であったが、そうはならない歯痒さもあった。勝手に誤読すれば、芝居全体から考えても、武智鉄二はもしかしたら久我之助を主人公と見なしていたのかもしれない。でもそれではあんまりというか、滅茶苦茶である。
勝手な感想を述べてきたが、結論じみたことをあえて言うなら、この芝居にはいわゆる主人公などいないのかもしれない。主人公はあってないようなものである。それでいいではないか、とも思う。筋はたしかにある。アイスキュロスの最も古い悲劇と言われる『ペルサイ』のように筋すらないということはない。作者である近松半二はどれほどの苦労をしたのだろう。芝居を書く、というのは大変なことである。 主人公はあってもなくてもよい。筋もあってもなくてもよい。人形浄瑠璃に限って言っているのではない。ギリシア悲劇からエリザベス朝演劇まで。そして私の敬愛する20世紀の演劇の革命家アントナン・アルトーやわれわれの知る現代の前衛演劇にいたるまでである。 おまけにギリシア悲劇などとは異なり、文楽には浄瑠璃も三味線もある。これは強みである。さらに生身の役者ではなく人形である。主人公の不在に関して、生身の役者ではない、という点はひとつのミソかもしれない。生身の役者がいれば、なかなかこうはいかないだろう。 声にびっくりして浄瑠璃の太夫のほうを見たり、三味線に聞き入ったり、はたまた人形を見たり、いつも私はきょろきょろしている。同時に三者を見ることはできない。おまけに今回は太夫の数も多い。いつも人形を見ていない瞬間がけっこうあることを自分でも分かっている。生身の役者が演じる主人公はつねに衆人環視のもとにおかれる。注目の的である。人形でも注目の的ということでは変わりないが、こちらの生理的、大脳生理学的要件が異なってくる。生身であれば、強迫のようにじっと凝視せざるを得ない。暑苦しい肉体があるからである。それに教養のないわれわれには浄瑠璃の詞章、本来は余計なものであるはずのあの字幕を見る必要だってあるではないか。
太夫、三味線、人形という三段構えの文楽。だからこそ時間は緩やかに流れ、緩やかに流れるほかはない。したがってある種の意図的手法のようにも見える上演時間の長さというやつも、当時の芸と庶民の関係を鑑みれば、たぶん日本独特のものかもしれず、そのことも手伝っているはずである。この段では、主人公は何人いてもいいと言える。時間は流れ、芝居も流れる。流れては消え、消えては流れる。いにしえの時間がそこにある。この点では現代的なところはまったくないと言っていい。機械仕掛けの神はいらない。少なくともご愛嬌くらいにしかほとんど必要ないのである。 誰でも知っている黒澤明の映画『七人の侍』も、去年日本で封切られたアレクセイ・ゲルマンの空前絶後の映画『神々のたそがれ』も、せちがらい現代人である私にとってはずいぶん長い映画だなあと思ったが、それでもたったの三時間たらずである。それに比べて本作の人形浄瑠璃は八時間以上である。これは人形浄瑠璃を他のものとは趣の違うものに変えるひとつの紛れもない要素かもしれないのである。
■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。
(2016年4月11日『妹背山婦女庭訓』(第二部)、19日(第一部)観劇)
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