歌舞伎や文楽ではそもそも、観客のほとんどが粗筋をあらかじめ知っている。なんせ大昔からおなじ演目をしているのだから、自然とそうなる。古典落語で、丁稚が仕事を抜け出して自分の好きな段だけを繰り返し見に行ったりする場面があるが、展開を熟知していても、ハラハラドキドキしてしまうのだ。
これが、映画やドラマだったらどうだろう。まったくおなじ映像を何回も見られるだろうか。舞台での生の芝居、演者がすぐそこで演じているからこそなのだ。毎回微妙にちがうし、長年のファンならおなじ脚本でもちがう演者と比べて楽しめる。古典芸能ならではである。
「妹背山婦女庭訓」は、三年前にも見たが、そのときは六段だけだった。今回は通し狂言で、十四段ある。
劇場に入ると、舞台に向かって右側にしかないはずの出語り床が、左側にも設えてあるのに気づいた。開演時間のデジタル表示が少し隠れている。私の席はだいぶ左側だったので、見慣れない光景に少しそわそわした。この臨時の出語り床がなにに使われるかは知っていたのだが。
第一部の最後「妹山背山の段」は、三年前にはなかった注目の段である。舞台の中央を縦に川が流れていて、その右側の背山に大判事、左側の妹山に太宰家の館がそれぞれ配置されている。
ふたつの館で繰り広げられるのは、子殺しである。背山の館では大判事清澄と久我之助父子、妹山の館では後室定高と雛鳥母子(久我之助は切腹し父が介錯するのだが、そうするよう説得したのは父である)。
このときの大判官のせりふ。
「侍の奇羅を飾り厳めしく横たへし大小 倅が首を切る刀とは五十年来知らざりし」 ここまでの粗筋はややこしいので割愛する。久我之助と雛鳥は恋仲であり、ともに暴君蘇我入鹿に召されていて、将来を悲観している。つまり、それなら死んだ方がましと、親子ともども考える。
文楽の時代物において、子殺し親殺しには、だいたい大義がある。主君のためとか義理のためとか。しかしこのケースは、自身の名誉を守るためなのだ。死んで結ばれる。いわば心中を親が手伝う。
簡単に書いたが、この段はすさまじい。子殺しに至るまでの両館でのやりとり、背山のときは右手の出語り床が男性的な太い三味線と語りを、妹山のときは左側の出語り床が艶っぽいのを、交互に奏でる。その鮮やかなコントラストと立体感は、これまで体験した文楽にはなかったものだ。
久我之助が腹に刃を立てても、父はすぐに介錯せずこう言い放つ。
「ヤレ暫く引き回すな 覚悟の切腹せくことはない (中略) 一生の名残女が面 ひと目見てナナナナなぜ死なぬ」
雛鳥の首をはねた母が、その首を容器に入れて川を渡らせると、息も絶え絶えの久我之助に見せ、祝言をあげさせる。
それにしてもハラハラするのは、切腹してからここまでかなり時間を要していて、これは文楽ではよくあることなのだが、死にかけている人間を放置して話を進めるところだ。早く楽にさせてあげたらいいのにと思うが、それではせっかくの死が台無しになってしまうのだろう。
第二部は三年前に見たのとほぼおなじ。当時の観劇日誌にはこんなことを書いていた。
「妹背山婦女庭訓」における、お三輪の存在は忘れられない。心底惚れた男である藤原鎌足の息子・求馬を追って屋敷に入ると、求馬が姫と内祝言をあげると聞き、奪い返す決意をする。そもそもとても気性の激しい女である。ところが官女たちがお三輪を不審に思い、その目的を知ると、酷くからかった末に放置する。受けた辱め、恨み、怒りに身を震わせて、お三輪は祝言の邪魔をしに奥へ駆け込もうとする。そのとき、鎌足の家来に刺される。お三輪は姫の回し者にやられたと思い、死んでも必ずこの恨みを晴らす、と奥を睨みつける。すると鎌足の家来は、それでこそ天っ晴れ、という。
お三輪を刺した目的は、〈嫉妬の相〉がある女の生き血であり、情念が深ければ深いほどよく、それがあれば鎌足と求馬の念願が叶うのだ。自分の死が恋人の役に立つと知ったお三輪はとても喜び、もう一度逢いたいと、求馬を慕いながら息絶える。
久我之助と雛鳥の死と、お三輪の死は、どちらも不条理だが意味合いはまるでちがう。お三輪のは時代物の王道、大義のための死なのだ。だからなのか、悲惨であっても美しい。
それにしても、桐竹勘十郎さんの遣るお三輪の愛嬌には見とれた。舞台を縦横に跳ねる生気と、袖の振り方や首の傾げ方など、ほんのちょっとしたしぐさにキュンときた。まるで、人形の動きに主遣いが引っ張られるようなのだ。
■玄月(げんげつ)
作家。大阪南船場で文学バー・リズールをプロデュースし、経営している。1965年生まれ。大阪市立南高等学校卒業。2000年「蔭の棲みか」で第122回芥川賞受賞。著書に、『山田太郎と申します』『睦言』『眷族』『めくるめく部屋』『狂饗記』など。大阪府在住。
(2016年4月4日『妹背山婦女庭訓』(第一部)、5日(第二部)観劇)
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