カレンダー チケット
文楽かんげき日誌

大いなる悪/妹背山婦女庭訓

三咲 光郎

国立文楽劇場前の歩道の桜が、明るい空の下で満開です。四月公演は、『妹背山婦女庭訓』。大化の改新をベースにした時代物で悪役の蘇我入鹿がとてつもなく悪い、と聞いて期待して来ました。悪役に圧倒的なスケール感があると、ドラマはよりいっそう面白くなります。

午前十一時。第一部の開演です。序盤を観ていて、あれ? と首を傾げました。

忠臣・藤原鎌足を追い落とし、天智帝の地位を脅かしているのは、入鹿ではなくて、父の蝦夷子です。入鹿の妻が蝦夷子を訪ねてきて、入鹿は仏の道に入って引き籠り、父が心を改めなければ地中の棺に入るつもりでいる、と諫めると、蝦夷子は激怒して息子の嫁を斬り殺してしまいます。

あれ? それなら入鹿は忠臣ですよ?

そこへ勅使が現われ、入鹿から手に入れた謀反の証拠を突きつけ、逃れられなくなった蝦夷子はあっけなく自害。

あれれ? とあっけにとられていると、突然飛んできた矢が勅使を倒し、弓を片手に登場したのは、

「髪はおどろに麻衣、さも凄まじき有髪の僧形の」

入鹿大臣です。観ている私もびっくり仰天していると、入鹿は言います。自分は仏道に入ると偽って引き籠り、実は禁裏へ隠れ道を作って叢雲の宝剣を奪った。これから禁裏へ攻め上って帝位を奪うのだ。

「父蝦夷子反逆の企てあれどその器小さくしてなかなか大望なり難し、……父が命芥の如く見捨てしはこの時を待つ謀、ハヽヽヽあら心地よや潔し」

入鹿のこのせりふには、ぞくりとなりました。悪逆の権力者である父を、器が小さいと見切っている。大きくて深い「悪」がここにいる。本作の面白さはやはり間違いなしです。

入鹿の悪の権勢と、それに対する鎌足の戦い。全編を貫く背景のもと、第一部で語られるのは、久我之助と雛鳥の悲恋です。

敵対する家の子という『ロミオとジュリエット』同様の設定で、恋する二人に、入鹿の無理難題が降りかかります。第一部クライマックスの「妹山背山の段」は、舞台の真ん中を流れる川を挟んで、上手に久我之助の屋敷、下手に雛鳥の屋敷があるという、有名な場面です。太夫と三味線が座る床も、背山側と妹山側の両方に設けられて、掛け合いとなります。久我之助側の力強さと、雛鳥側の繊細さ。聞く耳に心地良く調和すると同時に、向かい合った太夫、三味線の競い合いが楽しめます。それぞれの気迫に圧倒され、感動しました。

恋の顛末は、これからご覧になる方もいらっしゃるので、書きませんが、演劇的な趣向を凝らしながらの、悲しい結末です。観終わって、そばの席の欧米人らしき観客が、ホワイ? ジャパニーズピープル? みたいな顔をしていました。『ロミオとジュリエット』とは違い、「家」や「親」の存在がこんなに大きいとは。日本の文化の根っこに触れたと思っていただきたいですね。

第一部が済んで、三十分後に第二部の開演となります。その間にお客さんの入れ替えがあるのですが、二階ロビーで待っている、通しで観る人も多くいました。第一部の開演が午前十一時、第二部の終演が午後九時。十時間近く座っていることになります。内容の面白さに、時間の長さは感じませんが、お尻は痛くなる。それを最小限にして防ぐ方法は? 体を座席に合わせてまっすぐ前を向き、姿勢正しく、首だけを舞台に向ける。休憩時間はロビーに出て体を動かし全身の血流をよくする。我流ですが、そうやるとけっこうしのげます。

さて、第二部では、ふたつのエピソードが語られます。

天智帝を匿う猟師・芝六の家族のドラマ。

鎌足の息子・藤原淡海をめぐる二人の女の恋のドラマ。

どちらも、入鹿を倒すために生じた悲劇です。犠牲になるのは、入鹿討伐とは何の関係もない弱い存在でした。入鹿の出番は多くはありません。それでも、まがまがしい背景と化して、この世に悲しい死をもたらしている。とてつもなく大きな悪役です。

後半の中心人物は、杉酒屋の娘・お三輪。隣家の烏帽子職人と恋仲になるのですが、この男が実は藤原淡海の世を忍ぶ仮の姿。淡海は、夜な夜な通ってくる謎の美女とも深い仲で、ある夜、苧環の赤い糸を美女に縫い付けて後を追います。その淡海に、白い苧環の糸を縫い付けて、お三輪が追う。三人の道行の美しさを堪能しました。

タイトルにある「庭訓」は、「家庭教育」という意味です。しつけ、とか、論語に示される道徳的な生き方をイメージします。登場人物のほとんどがそんな行動倫理で動くなかで、お三輪だけは、恋の炎に焼かれて、なりふりかまわずどんどん前に進んでいきます。

「オヽ殺さば殺せ。一念の生きかはり死にかはり、付き纏うてこの怨み晴らさいで置かうか。」

と嫉妬と執着に憑かれた姿。

「主様には逢はれぬか、……もう目が見えぬ、懐しい恋し恋し」

とつぶやく姿。

開演初日の幕間に、三輪明神大神神社の権禰宜が舞台に上がられて、桐竹勘十郎さんが遣うお三輪に杉玉を授与されました。その際に、権禰宜がお三輪のことを「永遠のヒロイン」とおっしゃっていたのが印象に残りました。

幾つものエピソードと大勢の登場人物をもつ本作で、確かに、まさにお三輪こそがヒロインだと感じました。

国を呑み込む権力欲を持った支配者を倒せるのは、お三輪の、道理を超えた激しい恋の血潮だけなのでしょう。

■三咲 光郎(みさき みつお)
小説家。大阪府生まれ。関西学院大学文学部日本文学科卒業。
1993年『大正暮色』で第5回堺自由都市文学賞受賞。1998年『大正四年の狙撃手(スナイパー)』で第78回オール讀物新人賞受賞。2001年『群蝶の空』で第8回松本清張賞受賞。大阪府在住。

(2016年4月2日『妹背山婦女庭訓』第一部、第二部観劇)