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文楽かんげき日誌

人の値段は五十両

細川 貂々 ・ 望月 昭

春以来、半年ぶりのご無沙汰でございます。細川貂々のツレ、望月昭です。文楽かんげき日誌、本来は夏にも息子も伴って「ふしぎな豆の木」観に来る予定やったんですが、息子がえらい風邪もらってきてしまいまして、相棒が一人で「親子観劇」をしてきたという、しょうもない展開になってしまいました。

というわけで、今回は僕も久しぶりの文楽鑑賞です。秋は錦秋文楽公演とのことで大作「玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)」が披露されるとのことですが、この大作は午後4時開演とのことでして、小学校低学年児童を抱えた我が家としては、残念ながらこの時間はパスでございます。でも午前の部の「碁太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)」もなかなか艶やかなポスターになっている。これも力作でしょう。今回はこっちを鑑賞させていただきます、ということで国立文楽劇場にやってまいりました。

今回の鑑賞演目は次の三作でございます。

碁太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)

桜鍔恨鮫鞘(さくらつばうらみのさめざや)

団子売(だんごうり)

このうち、一作目と二作目はいわゆる「世話物」。江戸時代の庶民の話を描いた人情物でございます。三作目は楽しいエンターテイメント・ショウのような華やかな歌と踊りです。ということで、今回はじっくりと世話物の鑑賞です。

もっとも文楽にも歌舞伎にも疎い僕たち夫婦ですから、当日鑑賞するまで僕も碁太平記白石噺のことを「太平記って入っているから戦記物だろうねえ。ワクワクするねえ」と勘違いしていたり、相棒に至っては桜鍔恨鮫鞘という漢字を見て「さくらわに、うらみのさめたこ……浦島太郎みたいな話なのか?」なんてトンデモナイ誤解をしていたわけですが。

劇場に入って、椅子に座って、プログラムを読ませていただきます。まずは最初の「碁太平記白石噺」について。ん、どうやら戦記物じゃないらしい。姉妹の仇討ちの話らしい。しかも奥州白石と江戸が舞台だ。関西ではなく東国の話のようです。最初の舞台は「田植の段」幕が開くと、農民たちが楽しげに稲を植えている。そこに庄屋どんが通りかかって、こいつが悪役かと思いきや、特にそういうこともなくマットウなことを言って、またのどかに話が続いていく。本当の悪役はそのあとに出てきた悪代官の台七という男なのでした。台七が、いわくありげな鏡を田んぼの間に隠します。
「ダーク・ロードがマジック・ミラーをフィールドの中に隠したぞ!」
「わざわざスター・ウォーズ風に言い換えなくてもいいから」 そんなことを言って観ていると、主人公の少女「おのぶ」の父親が鏡をみつけてしまい、それをさらに悪代官に見つかってしまい、殺されてしまいます。
「この場面は、今年の宝塚月組公演にあった『1789-バスティーユの恋人たち』の最初と同じだ!」
と三度の飯よりも宝塚歌劇が大好きな相棒。 もっとも宝塚のほうは、父親を殺された主人公ロナン・マズリエが妹とともに、父親を殺した社会制度に対して復讐を誓い、やがてフランス革命を起こす核の人物に育っていくという展開になるのですが、碁太平記白石噺は世話物なので、父親を殺した人物に対しての復讐を誓うという展開になります。そっくりだけど、何かが違う。
「でも、ほんまやったら殺したヤツの顔も見てるんやったら、そっちが憎いと思うのがニンゲンやと思うがなあ」
「宝塚のほうは父親を殺した伯爵に再会しても、また拷問されたり、やられっぱなしなんだよね」
宝塚版の碁太平記白石噺、いや違った「1789」ですが、元はフランスで作られたミュージカル。フランス人の感覚というか美学が入っているので、日本の文楽とはやっぱりいろいろ異なるのでしょう。宝塚版ではロナンの敵役ペイロール伯爵を星条海斗(せいじょう・かいと)さんというスターが演じていて、ブーツの似合うロックスターのような美形なのでとても格好良かったのです。彼(彼女)に拷問されたい、なんて不埒な考えを抱く女子の方々もいらっしゃるのではないでしょうか。

碁太平記白石噺の第二幕は「浅草雷門の段」です。花のお江戸が舞台です。ここでは最初に「どじょう」という手品師が出てくる。この「どじょう」、正義なのか悪なのかはよくわからないが、トリックなどを駆使して、めっぽう能力が高いらしい。この「どじょう」の見世物が終わると、いよいよ本編。ここでは悪人の勘九郎が、仇討ちのために姉を探して江戸に出てきた主人公の少女「おのぶ」を騙して、彼女に自分を「おじさん」と呼べと言いくるめ、親戚のふりをして彼女を吉原に売ってしまおうと画策します。これを吉原の揚屋、大黒屋の惣六という男が見咎めて、勘九郎からおのぶを五十両で買いとるのです。吉原の揚屋に買い取られたので、おのぶの立場は悪人に騙されっぱなしのときとどれほどの違いがあるのかよくわからないのですが、まずは良かった。でも悪人もまんまと五十両をせしめて喜んでいる。なんだかスッキリしません。悪人勘九郎は、五十両をせしめてホクホクとしていますが、最後にまた「どじょう」が出てきて、トリックで巻き上げられてしまう。大金らしい五十両だけど、あっという間に使ってしまうのだなあと、五十両の価値がなかなか把握しにくいのですが、ここはちょっと愉快なシーンでした。

そして第三幕は「新吉原揚屋の段」です。ここは、「おのぶ」が姉の「宮城野」と再会するシーン。そして、二人が復讐のために出奔しようとするところを、ここの主人の惣六が「曾我兄弟」の仇討ちの話などを引き合いに出し、「俺も理解して応援するから、まずはいったん早まらずに時期を待て」という説得に応じる、という幕切れになります。
「オー・ノー。今日のところはアダウチまで見られないね。マジック・ミラーの謎も、トリックスター、ドジョウ・マジシャンの活躍もこのあとどうなるのかワカラナイねー」
「なんでもスター・ウォーズに例えるガイジンさんのふりをしてみたいのね」 いや、でも「曾我兄弟」。五月人形にもなっている人気キャラクターのようですが、今の日本人で詳しく知っている方がどれくらいいるのでしょうか。僕もよくわかりません。

さて、休憩のあとは「桜鍔恨鮫鞘(さくらつばうらみのさめざや)」です。ワニじゃなくで「つば」だし、「タコ」じゃなくて「さや」だよ。「鍔」は刀の部品で、「鞘」から取り出すときに奥まで入りきらないように止めるものだよねえ。この桜の鍔と鮫の鞘が、おそらくは主人公の夫婦のことを暗示しているのではないかと取ったのですが、どうなんだろう。 話の内容は、八郎兵衛という主人公と、その奥さんの「お妻」。奥さんの名前が「妻」。理解しやすいけど、奥さんは子供のときから妻と呼ばれていたんだろうかなどと余計な詮索をしてしまったり。ややこしいのは、この奥さんが嫁ではなく、主人公のほうが入り婿的な立場。お妻の母親の画策で、主人公の立場をないがしろにして、別に金持ちの婿を取るという展開になっていきます。お妻には八郎兵衛という夫がいて、お半という娘までいるのに。新たに婿を取るとなると、家制度の元では主人公の立場は婿から使用人に格下げになるんでしょうか。よくわかりません。でも金持ちの婿が来て、その持参金が「五十両」。夫婦の義理も金次第、と言われてしまう八郎兵衛。新しい婿が来て子供もろとも放り出されてしまう。八郎兵衛は怒り狂って刀を振り回し、義母とお妻を切り殺してしまうのです。そして自分は切腹しようとするのだけど、娘のお半が母親から暗唱するようにと言われた遺言のようなものを口にします。それによると、八郎兵衛が奉公先の主人のために五十両を用意しなければならない。その必要な金を得るために策で婿を取ることにした。なにもかも八郎兵衛のためだったというのです。なんだかよくわからないが、トラブル一つ五十両、命を落とすも五十両のため。命の値段が五十両ということなのでしょうか。

今回は世話物を二つ鑑賞いたしました。そして、その中ではどちらも、人は五十両のために自分の身を売り、あるいは策を弄し、命を落とすということを学びました。人の命は地球より重い、と言われたりもします。しかし江戸時代では五十両だったのです。振り返ってみると、今の時代も人は金で買われ、命を落としたり奪ったりしているのではないでしょうか。義理と人情と申しますが、義理とはお金のこと、人情とはお互いがお互いを縛る約束事の世界ではないでしょうか。人は義理と人情の世界で生き、お金を含む義理のために命を落とし、あるいは逃られない役割によって消耗していくのではないか、そういうことを感じました。

「文楽の世話物は、いわばワイドショーですよ」 と、僕に文楽の世界を教えてくれた釈徹宗さんがおっしゃっていたなあ。舞台の上で追い込まれる登場人物は、ギリギリのところで生きていて、何気ない日常から怒涛の悲劇へと転落していってしまう。その事件は現実を取材して脚色したものです。これを観ながら江戸時代の庶民は「気持ちはよくわかる。不幸な人もいたもんやなあ。うちもいろいろ苦労は多いが、あないな人たちよりは少しばかりマシかもしれんなあ」と感情移入しながら、自らの立場に少しばかり安心を覚えていたのかもしれません。上から、周囲から、身内から、そして自分自身の中にある約束事でがんじがらめになっている庶民の感情を慰めるための娯楽だったのだと言えるでしょう。 でも、ワイドショーという言葉ひとつで理解できてしまう現代の自分もまた、同じようにいろいろなものに締め付けられ、お金のことに振り回されて生きているのかもしれない。

「人の値段が五十両」と聞けば、前近代的な奴隷制度のような、人間を物として売り買いしている世界だと思ってしまいがちだけど、今の時代もまた「労働力」という形で人は自分の時間をお金に換えて生きています。非正規労働者としてフルタイムで働けば、その年収はおよそ150万円です。ややこしい責任を負わない素のままの労働力の値段。これが現代の「五十両」なのかもしれません。

本日の観劇、最後の演目は華やかな「団子売」でした。団子売の「杵造」と「お臼」の夫婦が明るく華やかに歌い踊りながら、ただ団子を売る、そんなショウのような20分ほどの演目ですが、大夫が三人に三味線も四人登場し、それに太鼓と笛の音が絡んでとても音楽的。夫婦の二人が臼と杵とで餅を搗き、団子にして売るという動作をします。 そういえば、パリやニューヨークでは、地下鉄の通路などでヴァイオリンや管楽器を演奏する人がいて、目の前に置かれた楽器のケースにどんどんお金が溜まっていくという風景を見ることがある。西欧社会では「芸」に直接お金を払うという習慣があるのですが、日本ではそれが馴染まない。その代わりにあるのが、芸を見せたあと、本来ならば安価な品物を多少高く買ってもらう、という習慣かもしれません。昭和の時代の紙芝居屋さんしかり。紙芝居を見せて、水飴を少しばかり高く売っていたと聞きます。この団子売りもまた、見事な歌と踊り、曲搗きのようなものを見せて、団子を少しばかり高く売ったのかもしれません。

お金って、難しいものだなあ、とあらためて思います。人の情けを踏みにじってまで義理を買い、あるいは人を殺してしまうほどに追い込んでしまうものでありますが、お金の持つ別の姿は単純な賞賛であったり、生きるためのエネルギーだったりもする。楽し気に団子を売る杵造とお臼を見ていて、芸を売るということの楽しさをまた味わさせられたのであります。

■細川 貂々(ほそかわ てんてん)
漫画家。1969年埼玉県生まれ、セツ・モードセミナー卒。さまざまな職を経たあと1996年に集英社「ぶ~けDX」にて漫画家デビュー。短編作家として多くの漫画雑誌に執筆。
夫の望月昭の闘病を描いた『ツレがうつになりまして。』を2006年に発表。
評判となりNHKドラマ化(合津直枝プロデュース)、東映によって映画化される(佐々部清監督)。
東日本震災後、首都圏から兵庫県宝塚市に転居。大好きな宝塚歌劇三昧の生活を送っている。

■望月 昭(もちづき あきら)
主夫。1964年東京都生まれ、千葉大学文学部、セツ・モードセミナー卒。細川貂々とはセツ・モードセミナーでの同級生。幼少時をヨーロッパで、小中学生時代を大阪で過ごす。
コンピュータ・ハードウェアメーカーのサラリーマンだったが2004年にうつ病となり退社。
以後、主夫として子育てパパとして、また漫画家アシスタントとして細川貂々を支える。
2006年に株式会社てんてん企画を設立し、代表取締役を務めている。
大のクラシック音楽ファン。現在、大阪フィルハーモニー交響楽団の年間定期会員。

(2015年11月10日第一部『碁太平記白石噺』『桜鍔恨鮫鞘』『団子売』観劇)