『生写朝顔話』が上演される。 しかも全17段のうちの9段を通しで。くりかえし上演されてきた人気の段はもちろん、およそ40年ぶりに上演される段も含めて、江戸天保年間の初演以来、浄瑠璃ファンに愛されてきた作品のほぼ全容が観られる。楽しみにして劇場へ出掛けました。 とはいうものの、第2部、第3部合わせて6時間余りの上演時間があるので、途中で疲れないかな、と一抹の心配もありました。 いや、そんなのはまったくの杞憂で、実におもしろい。蛍の飛び交う宇治川の場面から、いっきに物語の世界に引き込まれました。
物語の大きな枠は、さる大名家のお家騒動をとりあげた時代物だそうです。上演される物語の主軸は、家老職の娘・深雪と、若き武士・阿曾次郎の、長きにわたる恋愛ドラマです。上演のチラシに、「元祖すれ違いドラマ」と銘打っているので、ハンカチを何枚も持っていくべき悲恋物語だろうな、と思っていました。
もちろんそうでしたが、それだけではない。 登場人物たちのキャラクターが多彩で、なかでも、萩の祐仙という小悪党の医師が、強烈な存在感を放っています。個性的な脇役が主役を食ってしまいそうになる。そんな勢いのあるドラマが大好きな私は大喜びでした。単なる恋愛劇ではなく、コメディ、ファース(笑劇)の要素も多くて、退屈しません。 祐仙は、深雪に横恋慕し、婿の候補者に化けて家に乗り込んだり、主人公を暗殺しようとして逆に自分が笑い薬を盛られたり。『いい奴、悪い奴、きたない奴』というタイトルの映画が以前ありましたが、祐仙はまさに、きたない奴。卑劣で、さもしい男なのです。ところが、おっちょこちょいで、しくじってばかり。どうにも情けない。でも憎めません。この人間味溢れる祐仙を、竹本千歳大夫さんと豊澤富助さん、竹本文字久大夫さんと鶴澤藤蔵さん、桐竹勘十郎さんたちが、繊細かつパワフルに表現していらっしゃいます。祐仙が大活躍する『岡崎隠れ家の段』と『嶋田宿笑い薬の段』には、圧倒されました。あの、笑い薬を飲んだ祐仙のようすは、ぜひとも劇場で体感していただきたいものです。
さて、主役は、深雪と阿曾次郎でした。 蛍の飛び交う宇治川で見初め合ってから、幸せに結婚するはずだったのに、主家のお家騒動にからんで、二人の運命は、すれ違いばかりを重ねていきます。 深雪は阿曾次郎を慕って家を飛び出し、人買いに売られたり、目が見えなくなったりして、無残にも諸国流浪の瞽女に堕ちていきます。阿曾次郎とは、明石の浦で、静岡の嶋田の宿で、再会しても別れを繰り返してしまう。どの場面も、哀切で、美しい。放浪の瞽女となった深雪は、「朝顔」と呼ばれるようになりますが、その儚い花のイメージは、彼女の流転の人生を写しています。
流転する女の物語は、浄瑠璃の源流といわれる中世の「説教節」の時代からおなじみでした。たとえば『小栗判官』の照手姫、『山椒太夫』の安寿姫など。こうした女性の艱難辛苦のお話には、諸国を遍歴して芸能の基礎をかたちづくった名もない人たちの苦難の記憶が刻まれているようです。それを娯楽として楽しんだ人々の記憶にもなり、この国の人の血となって、生々流転の物語は今でも私たちに懐かしさと憧れを感じさせます。
『生写朝顔話』が変わらない人気を保っているのは、流転の悲しい物語だからでしょうか。 深雪こと朝顔は、流転の末に儚く散っていく悲しいだけの女ではありません。 阿曾次郎恋しさに泣き嘆いて目を潰してしまった弱い娘は、実際は、もともと恋に一途な女です。初めて会った時も、 恋ひ慕ふ心通はす風もがな人目隔つる君があたりへ と積極的に恋歌で自らアプローチしていますし、また、明石の浦で再会した阿曾次郎が、 「ある縁ならば添ふ時節もあらう。」 と一旦別れようとすると、 「もしお前に添ふことのならぬ時には、淵川へこの身を投げ死にまする。」 海へ飛び込もうとして阿曾次郎の心を動かします。 そして、嶋田の宿で、目の見えぬ自分に一曲所望した人物が実は阿曾次郎だったと知った時、一心不乱に後を追い、大井川の川止めで追うことが適わないと知ると、 「天道様、エエ聞こえませぬ聞こえませぬ聞こえませぬわいなあ。」 天に向かって絶唱する。『生写朝顔話』全段を通しての、クライマックスの絶唱です。悲しみを超えて心が震えました。 時間を忘れ、引き込まれて観ていた私は、ヒロインのひたむきな恋心のこの強さに、心惹かれて舞台を見つめていたのだ、と気がつきました。
■三咲 光郎(みさき みつお)
小説家。大阪府生まれ。関西学院大学文学部日本文学科卒業。
1993年『大正暮色』で第5回堺自由都市文学賞受賞。1998年『大正四年の狙撃手(スナイパー)』で第78回オール讀物新人賞受賞。2001年『群蝶の空』で第8回松本清張賞受賞。大阪府在住。
(2015年7月19日第二部『生写朝顔話』、第三部『きぬたと大文字』『生写朝顔話』観劇)
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