今回は「冥途の飛脚」を観劇してきました。前に見た「女殺油地獄」に続き、近松門左衛門作の世話物。こちらも大坂で実際にあった飛脚屋の横領事件を元に書かれた作品だそうです。冥途の飛脚とはよく言ったもので、飛脚を生業にする主人公の忠兵衛は、新町の遊女梅川との恋に溺れるあまり我を失い、足速に人生を転落していくのです。近松門左衛門は、巷で話題になっている事件を題材にして作品をつくり、耳目を集めることにも長けていたそうなのですが、このような、男女についてのうわさ話や、お金の絡む事件は、江戸の時代でも大きな話題になっていたのでしょうか。観劇の回数を重ねるうちに、物語の作られた当時(冥途の飛脚の初演は1711年)の観客には、どういった受け取られかたをしていたのか知りたくなってきました。当然、現代に生きる自分たちとは違う感受性なわけですから、季節や植物から感じ取られる意味や、家族や隣人に対する感情も付き合い方も違うでしょう。
ちょっと話は逸れますが、先日、「丁稚奉公」という言葉を調べていたところ、丁稚、手代、番頭、旦那と、位が上がる際に呼び名も変わっていくという記述がありました。商店に住み込みで働くようになる10歳頃から10年間ほどの丁稚時代には、呼び名に「~松」と付くそうで、丁稚の次の位で、手代となると呼び名に「~吉」や「~七」。番頭時代は「~助」となるそうです。ちなみに丁稚はおおむね10代、番頭を任されるのは30歳前後ということで、今まで、名前について、それほど深く意味を考えたことがなかったのですが、そんなことを知っていると、登場人物の名前を聞いただけで、素性や身分がわかり、その上で見えてくる景色もあるのでしょうね。
ところで、この物語の序盤で舞台となっている亀屋の場面でも手代が登場しています。彼は非常に落ち着いていて格好良く、主要な役でもないのにとても印象に残っているのですが、名前はなんと伊兵衛でした。先に述べたことを直ちに覆すようですが、つまり、呼び名にも例外があったってことなんでしょうかねぇ。ふふふ、なんだか、わからなくなってきました。
手代の伊兵衛
何千両もの大金を預かり、江戸ー大坂間の百三十里、行き来している飛脚の亀屋。その手代の伊兵衛は、トラブルが発生しても、慌てることなく場を収める有能な姿をみせてくれます。
「一度は思案。二度は無思案(ぶしあん)」と、最初は思案をしたにも関わらず、次第に分別を失くしていき、羽織を落としたことにも気がつかず、我を忘れて梅川の待つ廓へ向かってしまう。そんな忠兵衛の心情を描きだす「羽織落とし」の場面は「冥途の飛脚」の中でも大きな見せ場のひとつ。川縁を何度も行きつ戻りつ、ウロウロとする忠兵衛。仕事で預かっている大切な金を持って、梅川の元へ行って使い込めば、彼は死罪となるでしょうし、彼の家業である飛脚屋の信用はどうなってしまうでしょう。しかし梅川に会いたい気持ちは止められず悩む忠兵衛。すると、舞台袖から呑気に登場する野良犬の姿。悩む忠兵衛の姿を横目に我関せずといった仕草を見せる野良犬との対比がおかしく、会場を大きく湧かせていました。最後に、犬は忠兵衛に蹴られて逃げて行くのですが、その姿が情けなくもあり、コミカルでもあり、思わず頬が緩んでしまいます。
「羽織落とし」の場面での犬
文楽、伝統芸能という言葉の重さに、実際に見に行くまでは、妙に構えてしまっていたのですが、色んな演目を見ていくと、それぞれに笑いの要素が入っていて、要は文楽も娯楽のひとつなのだな、という気持ちになる場面でした。
「封印切の段」では、新町越後屋に八右衛門が訪れ、金に困っている忠兵衛のことを慮って、ことの主因となっている遊女・梅川と別れさせるように他の遊女に頼むのですが、そこへ運悪く、客へ届けるはずの大金を持ったまま忠兵衛が現れ、ここでのやり取りを聞いてしまう。二階には梅川が部屋に隠れてその話を聞いている。まさに「仇の始まり」。いかにも何か起こりそうな雰囲気が漂っています。
ところが、人格者として描かれている八右衛門は、先の「淡路町の段」で起きた出来事(自分が忠兵衛の罪を見逃してやったこと)や、そのやり取りを、忠兵衛の母親にばれないようにするために、金を鬢水入れと入れ替えてごまかした狡っ辛い手口まで、遊女らに事細かに吹聴しているのですから、八右衛門のやり方がうまかったとは到底思えません。
なにせ、忠兵衛は先の「淡路町の段」で、八右衛門の50両を梅川の身請けの手付金として使い込んだことがばれてしまったので、その折りに「自分のことを人だと思うから腹が立つだろうけど、犬だと思ってくれ。犬の命だと思って助けてくれ」とか、「こんなことまで言うのは喉から剣を吐くよりも辛い」など、自分を徹底的に下げて許しを請うていたのにも関わらず、その内容を、よりによって梅川に聞かれてしまうような場所で言わなくても!という気持ちがしたでしょう。しかし「自分を犬と思ってくれ」とはねぇ。この感覚は、当時は普通に受け入れられたのでしょうか。
八右衛門の親切心は、忠兵衛にとってはおせっかい。事態は悪い方へ転がっていきます。
さて、この噛み合わせの良くない出来事がきっかけとなって、忠兵衛は傷つき、そして激情し、ズカズカと座敷へ入って、懐の300両の封印を切り、八右衛門へ向けて、さっき許してもらった50両など要らんとばかりに投げつけてますが、まあ、人の金を持って遊郭に来ちゃっている時点で、相当格好悪い上に、恩人に事の次第を全部ばらされて怒っているんですからね。この啖呵も空々しく響きます。
劇中では「短気は損気」と言われていますが、短気というよりも気持ちのコロコロ変わる忠兵衛の姿は、単に子供染みているようにも伺えます。そしてついに二階に隠れていた梅川が心配して下りてきて、言い争う八右衛門との間に割って入って諌める言葉にも、忠兵衛は耳を貸すことはありません。むしろ、その梅川のとった優しい行為が、更に忠兵衛のプライドを傷つけ追いつめてしまうのです。「女殺油地獄」でもそうでしたが、近松門左衛門が作り出す主人公が、次第に追いつめられていく描写が巧みで引き込まれました。
新町の遊郭
ストーリーにも引き込まれますが、「封印切の段」では、遊郭のセットがとても美しく、その色彩に目を奪われてしまいました。
結局、忠兵衛は自分が手にしているのは、自由に使える金なのだと嘘をつき、梅川を身請けすることに成功するのですが、この先、捕まれば死罪ということがわかっています。梅川の朋輩に「めでたいと申さうか、お名残惜しいと申さうか、千日言ふても尽きぬこと」と祝われるも、「その千日が迷惑」と切って捨てるように退けて、急いで廓を出て行くのです。
ずらりと並んだ太夫と三味線が壮観。
「道行相合かご」
場面は雪の舞う野辺。最後は逃げていく二人を描く悲しい場面。薄のサラサラという音や、鳥の羽音にさえ、追手の影をみて怯えてしまう忠兵衛と梅川。上手には、ずらりと太夫(6人)と三味線(4人)が並び、同じフレーズを謡い奏でます。物語はしっとりと終わるのかと思っていたら全く逆で、合奏ならではの厚い壁のような音が客席へ迫ってきます。そして、最後にゴーン、ゴーン、ゴーンと鐘の音が3度響き、その音が小さくなっていくと、次第に現実に戻ってくることができました。最後は物語がどうこうと考えるよりも、ただ圧倒され、音の渦に巻き込まれてしまったかのように感じた、初春文楽公演でした。
■下平 晃道(しもだいら あきのり)
イラストレーター、美術作家。1973年生まれ。東京造形大学彫刻学科卒業。2002年よりフリーランスのイラストレーター(Murgraph または下平晃道)として活動を始める。以後、広告、雑誌、装画、ウェブサイト、ミュージシャンやファッションブランドとコラボレーションした商品等のイラストレーション、ライブドローイングなどの仕事を手がけている。京都市在住。
(2015年1月21日 第二部『日吉丸稚桜』『冥途の飛脚』観劇)
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