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文楽かんげき日誌

「与兵衛は悪人だったのか?:女殺油地獄」

下平 晃道

 「女殺油地獄」は禍々しい題名が示す通り、油屋で起きた殺人を主題にした物語で、家庭の事情でわがままに育てられた23歳の青年、主人公の河内屋与兵衛が、馴染みの人妻のお吉を惨殺し金を奪って逃げるというあらまし。近松門左衛門が実話を元に創作した作品だそうです。
 ガイドを読むと1721年に初演があってから、近代の再評価が起こるまでの間、こんなに面白い演目の再演が一度もなかったというのは、物語から受ける衝撃の大きさからでしょうか。

 物語の始まりは野崎参り。舞台上には茶屋があり、のどかな山が遠くに見えます。「船は新造の乗り心サヨイヨエ、君と我とは図に乗つた乗つて来た。しつとん、しつとん、しつとんとん」
 冒頭に「しつとん」いう舟を漕ぐ音の心地よいリズムを添えた一節が入り、続いて卯月半ば(現在の五月頃)の、まだ少し肌寒い野崎参りの道中を、人々が酒で暖まりつつガヤガヤと歩いて行く場面が語られます。そして、子供をつれて舞台上に現れたお吉の紹介となる。
 手元のガイドによれば、野崎参りでは土手を行く人と、屋形舟に乗る人との罵り掛け合う様子が名物だったというので、人々が掛け合いで図に乗ることと、舟に乗るがかかってるんだなと気がつきます。こういう言い回しを探すのが、文楽の楽しみの一つになっています。
 お吉の紹介が済んだところへ、主人公の油商河内屋の次男、与兵衛が子分を二人連れて現れ、贔屓にしている芸者を奪われた腹いせに、茶屋の前で喧嘩を始めます。この喧嘩をきっかけに、与兵衛が侍に無礼をはたらき手打ちにされそうになります。
 喧嘩の理由も情けなければ、ふっかけた喧嘩にも負け、侍にも相手にされず。プライドが高く、自分の周りの人々に対して空威張り。与兵衛は悪人というよりはチンピラのようです。段の最後、退場する前に、こちらに向けて見得をきるのが、更なる空虚感を演出しています。
 また、同業の豊島屋の女房であるお吉のことを「色気はあれど見かけばかりでうま味のない飴細工の鳥のようだ」と憎まれ口をたたきながら、喧嘩で汚れた体を、お吉に拭いてもらったり(この場面は茶屋の前に子供を残して、いったん舞台から消えているため見えないのですが、自然と想像がはたらきます)と、お吉を姉のように慕う親密な関係を匂わせます。ここでのお吉は必要以上に目立つことはないのに、どこか艶のある感じが心に残ります。

与兵衛の首(かしら)は源太。源太は若い白塗りの色男。お吉の頭は老女方。老女方は眉をそり落とし、お歯黒をした既婚の女性。
文楽の首は別の演目で使い回されていて、源太も老女方も別の演目に出演しているので、人間でいったら、役者が別の演目にも出てるようなものなのに、人形を操る人形遣い(3名)によって演じ方が違う。違和感なく見てますが、よくよく考えると不思議な状況です。
今劇中には、徳兵衛が与兵衛に向かって「ヤイ木で造り土でつくねた人形でも、魂入るれば性根がある」と叱る場面がありますが、人形が人形に向けてこの言葉を発っするという、すごい台詞があります。

 続く「河内屋内の段」、つまり油屋を営む与兵衛の家での話なんですが、継父の徳兵衛と、実母のお沢に甘やかされて育った与兵衛は、働きもせず、芸者遊びに金を使い込んでるので、家族からも疎まれ立場がなく、あげく、体の弱い妹に憑かれたふりをさせて、先代(実父)の霊が、妹に婿をとることをやめて、与兵衛に家督を譲るようにと言っていると嘘をつかせます。
 しかし、そんなアクロバティックな企てもうまくいかず、最後には暴れて母まで足蹴にしたり踏みつけたりと、そのキレっぷりがひどいのです。さすがに堪えきれず、父、徳兵衛は涙を流して愛する息子に勘当を言いわたすのです。現代でも見られそうな、傍若無人で手に負えない不良少年を抱えた家族の姿が描かれます。

暴れる与兵衛
憎々しく演じられていますが、まだ抑えた演出が、後の事件を予感させます。

 この「女殺油地獄」では、全編を通して、与兵衛の抑えられない苛立ちが描かれているのだけれど、物語を動かしているのは、河内屋一家の「こらえ性のなさ」ではないでしょうか。与兵衛は芸者遊びを我慢できず、多額の借金をしたり、自分の感情を抑えられず周囲に当り散らし、文無しのまま家を追い出されてしまう。
 徳兵衛とお沢は、次の豊島屋油店の段(お吉の店での話)で、家を追い出してしまった与兵衛に、金を渡してやって欲しいと、お吉に頼みにくるなど「我が子を甘やかす気持ち」を我慢できないわけですから、事件の元凶はこの家庭にあるのです。
 こうなるとお吉は、この家の騒動に巻き込まれてしまった被害者なんですが、単純にそう描かれていないのが、この話を面白くしているところ。先に描かれた茶屋の場面での艶っぽさ、そして与兵衛のためにと金を渡す役目を引き受ける時に見せる、徳兵衛とお沢にかける情けや、自らが殺されてしまう、次の「豊島屋油店の段」では、子供の髪をとかして世話をする場面が長めに描かれているところから、彼女の中にある強い母性を見ることができます。そして、実は与兵衛と両親との間に流れている、直接、伝わることのない愛情を、彼らの間に立って聴く役割を与えられています。

きっと与兵衛はお吉を頼って来るはずと、徳兵衛とお沢は金や粽(ちまき)を持ってきて、甘やかし過ぎているのはわかっているのだが、どうかこれを与兵衛に渡して欲しいと頼む。二人の子を想う姿を、三人の娘の親である自分と重ねて泣くお吉。
「アアお沢様の心推量した、やりにくい筈。ここに捨てて置かしやんせ。わしが誰ぞよさそな人に拾はせましよ」と言い、「アア忝いとてものお情け、この粽も誰ぞよさそな犬に、食はせて下さんせ」とお沢。
金も粽もこの家の中に捨ててくれれば、私が必要としている人へさし上げましょうと言う、この気の利いたやり取りが好きです。

 さて、与兵衛は借りた金を返す算段がつかずに、脇差しを懐に豊島屋へ訪れます。ただ、持ってきた刃物でひと突きにするわけではなく、最初は、借金を返して真人間になるためにと、お吉に金を無心します。しかし、真っ当な理由で断られると、次は自分と良い仲になったつもりで金を貸せと言い寄り、それでも断られると、金を借りたまま死んでは両親に迷惑がかかるから貸せと言う。このあたりの論理がめちゃくちゃで、与兵衛に対する憎しみが増幅します。
 それでも、商売に使う油ならば、同業者として貸さなくてはいけませんね、と譲歩したお吉が樽に入った油を取りに背を向けた瞬間、与兵衛は懐から刃物を抜き出し、長く残忍な殺害の場面が始まるのですが、その描写が詳細です。
 3人の娘が悲しむと命乞いするお吉に対して「こなたの娘が可愛いほど、俺も俺を可愛がる親父がいとしい。金払ふて男立てねばならぬ。諦めて死んで下され。口で申せば人が聞く。心でお念仏、南無阿弥陀仏」という、与兵衛のなんともエグい台詞の後に「『南無阿弥陀仏』と引き寄せて右手(めて)より左手(ゆんで)の太腹へ、刺いては刳り(えぐり)抜いては斬る、お吉を迎ひの冥途の夜風」や「庭も心も暗闇に打ち撒く油、流るる血、踏みのめちらかし踏み滑り、身内は血汐の赤面赤鬼」、「お吉が身を裂く剣の山、目前の油の地獄の苦しみ」など、描写は残忍ですが、豊かな表現の数々に唸ってしまいます。
 ところで、与兵衛の苛立ちについて、自分なりに仕方ないと思わせられる理由があるかと、しばらく考えてきましたが、この殺しの場面での言い草を聞くにつけ「身勝手極まりない行為に弁明の余地なし」と結論が出ました。むしろ悪すぎて清々しいほどで、それがこの物語での与兵衛の魅力を際立たせているような気さえします。

お吉が殺される場面の人形の動き
この演目の最大の見せ場である、油屋でのお吉の殺害の場面では、ツルツルと滑るように操られる人形の動きだけで、樽から床へこぼれた大量の油が、実際に見えてくるようです。そして、大夫の語りと、三味線が創りだす世界の上に表される、髪を振乱したお吉の鬼気迫る表情や、与兵衛が斬りつけ、徐々に昂っていく感情の動きが見事です。

 最終の「豊島屋逮夜の段」。法要の前夜、悲しみに暮れるお吉の家族らの前に、何食わぬ調子で現れる与兵衛。しかし、偶然に証拠が見つかり、追いつめられた与兵衛の最後の口上がありますが、あれは後悔を口にしたのか、たんに開き直ったのか。
 与兵衛は捕えられ、縄をかけられ舞台を後にし、物語は静かに終演を迎えます。そこに何かを読み取りたいと、まだ何か未練を残しているような、彼の後ろ姿を目で追いました。

■下平 晃道(しもだいら あきのり)
イラストレーター、美術作家。1973年生まれ。東京造形大学彫刻学科卒業。2002年よりフリーランスのイラストレーター(Murgraph または下平晃道)として活動を始める。以後、広告、雑誌、装画、ウェブサイト、ミュージシャンやファッションブランドとコラボレーションした商品等のイラストレーション、ライブドローイングなどの仕事を手がけている。京都市在住。

(2014年7月21日『女殺油地獄』観劇)