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文楽かんげき日誌

目で見る文楽

くまざわ あかね

わたしがふだん携わっている「落語」は想像の芸。 基本的に、セットも大道具も、特別なメイクも衣装もなんにも使いません。

落語家さんが「きれいな桜やなぁ」と言えば、お客さんがそれぞれ満開の桜の美しさを思い浮かべる、という具合に、座布団の上の落語家さんが言葉を投げかけ、それをお客さま自身が頭の中で組み立てて想像することで「落語」が成立します。 言葉ひとつでお客さまを一瞬にして、船場の商家や昔の長屋、伊勢参りの道中から三途の川まで、時空を超えてどこへでもお連れできるのが落語のすごいところです。

落語によく似たスタイルの芸が「素浄瑠璃」です。大夫の語りと三味線の音色だけでもって、お客さまの頭の中に文楽の世界を描いてゆきます。 国立文楽劇場でも、年に何度か「素浄瑠璃の会」が開かれていますが、いつも見ている文楽とはまたひと味違って 「ここでこの人、こんなこと言うてたのか」 「あっ、こんな伏線が張られてる!」
と、床本の世界にぐぐっと、入り込める感覚があるのです。

義太夫のお稽古をしていることもあって、家では義太夫のCDを聞きながら仕事をすることもあります。途中で聞き流しができなくなってしまい、ついついそっちに気が取られてしまうのが難点なのではありますが…。

そんな状態でしたので、ここ数年の劇場の本公演は、もちろん人形も見ているものの、なんとはなしに床中心に見ていたような気がします。 もっと言えば、見ていた、というよりも聞いていた、という感じ。ときには、あまりの心地よさにふっと、眠りの精に誘われることもありました(ゴメンナサイ)。

なので今回、初春公演の夜の部を見に行ったあと、偶然同じ日に来ていた知り合いに
「今日、堀川で与次郎がお茶漬け食べてたとき、梅干しポロッと落としてはったのがおもしろかったですね」と言われても、
「えっ、そうやったっけ(汗)」と、ぼんやりとした受け答えしかできませんでした。 もっと言えば、えっ、お茶漬け食べてる場面あったっけ、と。いやはやお恥ずかしい限りです。

幸いにして二日後、ふたたび夜の部を見る機会がありましたため、今度はオペラグラス持参で、しっかり与次郎の動きをチェックしてみたところ…食べてはりました!梅干しでお茶漬け。それも、盲目の母親が娘に、心中を思いとどまらせようと説得する、というものすごいシリアスな場面で。

続く演目「阿古屋」でも、あんなに厳しく阿古屋を責めたてていた岩永が、三曲のラスト、胡弓を弾く場面でおもむろに火箸を持ち、胡弓の弾きマネをしたかと思ったら、いつのまにか袖口に火種が入り込んで袂に焼け焦げを作ってしまったり。さっきまでの厳しい詮議はなんやったんや!? というほどの浮かれ具合です。

「堀川」も「阿古屋」も、今までせんどCDで聞いてました。子守歌代わりだった時期もあります。そんな素浄瑠璃の語りからは想像もつかないような、斜め上を行く動きを実際の舞台で人形たちはしていた、というわけです。 ですが、どちらの行動も妙にストーンと、腑に落ちたのであります。

いままでの自分を振り返ってみても、嬉しいにつけ悲しいにつけ、自分のすべてがその感情一色になってしまうわけじゃあない。 友人の訃報に接したとき、悲しいのはもちろんなのだけれど、心のどこかで「辛い治療が終わってよかったね」と安堵した思いもありました。 失恋して、身も世もないほどのたうちまわっているときだって、お腹はすくし梅干し茶漬けは食べたくなる。

ペンキでベタ一面に「嬉しい」「悲しい」という感情を塗りたくるものよりも、その中にある細やかなグラデーションを描きだせるもののほうが、わたしの好みには合うようです。 文楽は、床と人形が一体となって、そのグラデーションを描いてゆくものなんだなぁと、帰りの焼き鳥屋で、お箸で胡弓を弾くマネをしながら強く感じた初春の舞台でありました。

■くまざわあかね
落語作家。1971年生まれ。関西学院大学社会学部卒業後、落語作家小佐田定雄に弟子入りする。2000年、国立演芸場主催の大衆芸能脚本コンクールで、新作落語『お父さんの一番モテた日』が優秀賞を受賞。2002年度大阪市咲くやこの花賞受賞。京都府立文化芸術会館「上方落語勉強会~お題の名づけ親はあなたです」シリーズなどで新作を発表。また新聞や雑誌のエッセイ、ラジオ、講演など幅広く活動。著書に、『落語的生活ことはじめ―大阪下町・昭和十年体験記』、『きもの噺』がある。大阪府出身。

(2014年1月13日・16日第二部『面売り』『近頃河原の達引』『壇浦兜軍記』観劇)