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文楽かんげき日誌

夏祭浪花鑑

中沢けい

『夏祭浪花鑑』は、亡くなった十八代目中村勘三郎丈を思い出さずにはいられない。勘三郎の名前がしっくりくる前に亡くなってしまったのはかえすがえすも残念でならない。私の中ではまだ「勘九郎」さんのほうが親しい名前で、「勘三郎」さんになりきらないうちの他界だった。声も台詞まわしも東京の役者という感じがして好きだった。それなのに、『夏祭浪花鑑』はニューヨークでさえ上演している。それはたぶん主人公の団七の見事な彫り物(刺青)が、勘三郎丈はよく似合うことを知っていたからではないかとひそかに信じている。

彫り物は西洋にもあり、私は子どもの頃、横須賀の米兵の腕に彫られたいたずら書きのような彫り物を目にしている。しかし、筋骨隆々とした西洋人の体つきでは、あの精緻な和彫りの彫り物は不似合なのではないかと思うことしきりだ。肌の下にふっくらとした脂がのっているような東洋人の体型があればこそ、和彫りの彫り物がよく映えるのではないだろうか。勘三郎丈はそのことをよく知っていて、好んで『夏祭浪花鑑』を演じていたように思う。団七が着るさらりとした木綿の浴衣の下からちらりと見える彫り物はほれぼれとするくらいきれいなものだった。

住吉鳥居前の段で登場する団七は文楽でも浴衣姿がすっきりと見えて涼しげだ。彫り物を入れた素肌が見える人形だからか、それとも人形なのにと言ったほうがいいのか、浴衣の肌触りさえ感じられ、ああ、きれいなものだと安心して眺めれいられる。ここでも勘三郎丈を思い出してしまうのは、ファンだったのだから許してもらうほかない。人形だから、余計に生きておもしろそうに芝居を演じていた勘三郎丈を思い出すのかもしれない。生身の役者だったら、そんなに素直に思い出と二重写しにはならないかもしれない。

団七は浮浪児だったと言う。それが義平次の口から解き明かされるのは、長町裏の段で、ここでまた団七の見事な彫り物を見ることができる。通称は「泥場」と言うくらいで、泥だらけになりながら団七は義平次を手にかける。この演出も勘三郎丈が好きだったことを本で読んだことがある。

が、文楽では泥だらけになるわけにもゆかない。さて、どうなるのだろうと義平次の台詞を聞く。これが、なんとも憎たらしいこと。団七の子どもの頃の恥の感情まで掘り返されずにはいられない。歌舞伎よりも芥子が利いている。あんまり憎たらしくって悲しくなるくらいだ。「お梶とちちくりあって」とずけずけしたことを言う義平次の台詞を聞きながら、ふと、団七が彫り物を入れたのはお梶と一緒になる前だろうか、それとも、所帯を持ってからだろうかと考えた。たぶん、お梶と一緒になる前にちがいないと、理由もなくそう思う。身を飾りたい盛りというものが男にもあるに違いない。それはまた恋の季節でもある。義平次の悪態が冴えれば冴えるほど、団七の動きがいきいきとして来る。人形は敵意を帯びるほど、生気がこもり始める。歌舞伎の泥だらけの演出とはまた違った彫り物が美しく映える動きになる。義平次殺しの緊迫した場面から「悪い人でも舅は親」の有名な台詞の入る場面へと続くわけだが、この台詞を耳にした時、団七はお梶が愛おしくてならないのだと気付いた。育ての親よりもお梶の父親としての義平次を手にかけ殺したことを後悔していることがくっきりと耳の中に輪郭線を描くように浮かんだのである。彫り物が泥だらけになる歌舞伎の場面とは異なる官能的な場面を見せてもらった。恋女房の親を殺してしまったという後悔と共に団七はまた人形に戻って行く。

我と我が身が財産という男にとって、身を飾るということはどれほど切ないものなのかを感じさせるのが団七の彫り物である。人形に戻った団七の肌にもその彫り物は鮮やかであった。

■中沢 けい(なかざわ けい)
作家。法政大学教授も務める。1959年生まれ。高校在学中に書いた「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞。1985年『水平線上にて』で野間文芸新人賞受賞。著書に『野ぶどうを摘む』『女ともだち』『豆畑の昼』『さくらささくれ』『楽隊のうさぎ』『うさぎとトランペット』など。千葉県出身。

(2013年7月29日『夏祭浪花鑑』観劇)