夏祭の浮き立った雰囲気のなか行われる舅殺人。塀一つを隔てて、御輿がチラチラと見え隠れし、耳に突き刺さるようなお囃子の音が鳴り響く。主人公の侠客団七は彼が義理立てする磯之丞の恋人傾城琴浦を金のために拐かした、卑劣な舅義平次にとどめを刺そうとするが、なかなか果たせない。あと一歩のところを満身創痍になりながら逃げ惑う義平次と、大童になりながら追いかけ回す団七。
くどいほどに長回しの殺人劇を見ながら、私は前回の『心中天網島』のときと同様、原始的な昂揚を覚えていた。だが、今回は頭のどこかが冷え冷えとしていたように思う。それは、以下のような疑問をどうにも頭の中から払うことができなかったからだ。
団七が舅の命を奪ってまで守ろうとする磯之丞はそこまでの価値がある男なのだろうか?
『夏祭浪花鑑』は、磯之丞と、その恋人傾城琴浦を守ろうとする、侠客達の活躍を描いた作品だ。主人公団七も、どこかユーモラスな老侠客三婦も、団七の義兄弟一寸徳兵衛も、皆、ストロングでタフでマッチョな男達だ。彼らは、力と知恵、そして勇気に恵まれている。侠客は、辞書によると、強きを挫き、弱きを助ける事を旨とした「任侠を建前とした渡世人」のことらしい。彼らは背負った名に恥じず、本来、赤の他人である磯之丞と傾城琴浦のために、命をかける。その姿は誠にかっこいい。
しかし、一方の磯之丞、これは何なのだろうか?力はない、知恵はない、勇気はない、おまけに金もない。いい年をして、男として身につけるべき何事も身につけておらず、身につけようともしていない。あちこちで次々にトラブルを起こしながら、一人では、何一つ問題を解決することの出来ない、情けない男だ。
彼の履歴をざっと紹介すると、元々は泉州浜田家の家臣玉島兵太夫の息子で、れっきとした武士である。しかし、遊女の琴浦に入れあげ、それに横恋慕した佐賀右衛門の陥穽にかかって遊びほうけ、父親から勘当される。結果、団七の妻、お梶が昔兵太夫の屋敷に奉公していた縁で、彼女を頼ることになるのだが、その際、駕籠かきに法外な金を要求され、罵倒までされる。見かねた三婦が駕籠かきを打ちこらしめ、金を払ってようやく救い出されるが、その間、彼はただただ差し俯くだけで仕返しも出来ない。その後、団七の口利きで道具屋の手代としてやとってもらうのだが、今度は、ここで、主人の娘お中と恋仲になってしまう。無論、琴浦との仲は繋がったままである。そして、お中との仲を嫉妬した番頭の伝八とその手下弥市によって大金をだまし取られ、怒った磯之丞は弥市を殺し、さらにお中を連れ駆け落ちまでする。結果、三婦は磯之丞の罪をもみ消すために必死で駆け回らなくてはならなくなるし、当たり前だが琴浦も焼き餅を焼いてカンカンに怒る。
要するにアホなのである。
自分がやったことがどんなことになるか想像出来ないし、勿論、起きた結果に対し責任を取ることも出来ない。それに甘やかされて育った、お坊ちゃんなので、団七、三婦、徳兵衛がどれほど奔走しても、真の意味で感謝することも出来ない。
道具屋の件で、三婦の奮闘もむなしく、磯之丞に詮議がかかりそうになったとき、徳兵衛の妻お辰が我が家にかばおうと言い出すが、三婦はお辰の容色を見て、磯之丞と過ちを犯すのではないかと危ぶむ。結果、お辰は一度言い出したことは引っ込めないと、自分の美しい顔に、真っ赤に焼けた鉄弓を押し当て、女の操を打ち立てるのだが、この凄惨劇の間、磯之丞が何をしていたかというと、琴浦と「暇乞ひと仲直りの、汗を一度にかいて」いた。鉄弓を押し当てるべきは、磯之丞のペニスの方だったなと、私は思う。
だが、もし、磯之丞が有意な人間だったとしたらどうなるだろうか。器量に優れた、後の大政治家だったりしたら。その場合、侠客達の奮闘も意義あるものになるが、その代わり、献身の純粋性は濁る。「この若者は将来ある人間だから」そんな見返りを求めるとしたら、それはもう任侠ではなく先行投資だろう。団七、三婦、徳兵衛は、輝かしい侠客から、灰色の政治屋に堕してしまう。
考えると、関東や九州と違い、上方には好ましい男の型の一つとして軟派というものがあるように思う。それは、江戸時代、大阪が徹底した町人の街だったことによるものだろう。なにせ江戸時代の大阪は、人口四十万人のうち、侍の占める割合は、たった二パーセントだったのだ。江戸が人口百万人のうち半分が武士だったと言われるのと対照的だ。
大阪は経済力では江戸をしのぐものがあったのに、軍事的には何の力も持てず、そのため、薩摩や長州のような野党的な政治力を持つことが出来なかった。力んだところで、世のなかの大きな仕組みは決して変えることが出来ない。そんな環境が、磯之丞のような男をよしとする風土を作っていったのではないだろうか。そして、この磯之丞は、後の大阪を舞台にした小説、例えば、谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のをんな』の庄造や織田作之助の『夫婦善哉』の柳吉などにもつながっていく、はゆまが勝手に上方ダメンズものと呼ぶものの起源なのかもしれない。
彼らダメンズは、価値がないままに、物語の中央に居座ることにより、周囲の生を輝かせるのだ。
物語のラスト、美々しい入れ墨と真っ白な筋肉を輝かせながら、団七が義平次の体に刀を突き立てる。まったく価値のない男のために、一人の人間が命を落とし、一人の人間が殺人を犯す。しかし、なればこそ、この殺人は目映く輝く。組織と規律のなかでしか発揮できない武士の力と違い、無為なもののために命を張ることが出来る。それこそが侠客の価値であり、誇りなのだ。そして、このかっこいい侠客団七と、上方ダメンズの磯之丞、二つの対照的な生両方ひっくるめて、当時絶頂を極めた江戸的な価値観に対する、上方の異議申し立てだったと思うのである。
■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。
(2013年7月27日「夏祭浪花鑑」観劇)
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