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文楽かんげき日誌

愉しいトラウマ

鈴木 創士

京の都の夕まぐれ、一条戻り橋の向こうから衣かずきをかぶった妙齢の女性がしずしずとやって来る。平安の武将渡辺綱が橋を進みゆく。かずきの下の女が絶世の美女であることは言うまでもない。綱と女がすれ違う。と、思ったとたん、綱の太刀が抜かれ、電光石火、ピカッと光る刃がヤッと振り下ろされた。切り落とされたのは、青黒い、毛むくじゃらの太い手首。ぎゃっ、と言って振り返った女は鬼の顔に変わっていた。 子供の頃に見てしまった「光景」である。当時、家にテレビはなかったはずだし、こんなものはテレビでやっているはずがなかったし、たぶん映画だったのだろう。映画はまだカラーではなく白黒だったはずだが、なぜか鬼の手首はパートカラーのように暗く青黒かった。妙齢の美女の手首は、おまけに毛むくじゃら。そもそもこんな映画はもしかしたら存在しなかったかもしれず、「羅生門」とごっちゃになって、生臭い記憶は部分的にすり替えられ、捏造されたのかもしれない。私を含めて人間って時間とともに退化する一方だ。複雑な記憶そのものが不確かであるばかりでなく(「私」はどこにいたのだろう?)、われわれは茫洋とした過去のなかに居続けている。だがとにかくこの「シーン」は私の一生のトラウマになった模様である。嘘じゃない。存在しない男や女(鬼)、幽霊のように蒼白い顔の少年武将(これまた鬼のようなものである)はいたるところにおいでになるのである。 鬼が怖かったし、いまでも怖い。怖いもの見たさということもある。京都の鬼殿といういにしえの悪所の跡を探しまわったこともあった。お正月に祖父の家で、ナマハゲがやって来たとき、「ちゃんと飯を食うか、ちゃんと勉強するか」と酒臭い息でどなり散らされて、まだお行儀の良い子供だった私はすぐさま「はい、ちゃんとします」と正座したまま本気で答えたものだった。

今回の文楽は「親子劇場」だった。子供たちが大勢来ていた。演目は「金太郎の大ぐも退治」と「瓜子姫とあまんじゃく」。「金太郎…」は『大江山酒呑童子』の一幕だから、源頼光による大江山の鬼退治の話だ。さっきの渡辺(源)綱は頼光に使えた頼光四天王のひとりである。おっ、鬼の親分の正体である大ぐもが社(やしろ)から現れるところがなかなかいいではないか。最後に大ぐもと頼光が組んずほぐれつ空中で戦いを繰り広げる大スペクタクル。よっ、待ってました。やんやの喝采。 「瓜子姫とあまんじゃく」は木下順二の作で、武智鉄二が提唱したとおりの「口語体浄瑠璃」だった。

  浄瑠璃の文句の中ならば謡も歌もうたふとはおもふべからず語るといふべしとこそをしへ侍れ   (『鸚鵡ケ杣』)

武智鉄二は「唄うべからず、語るべし……」ということを力説し解き明かしているが、そのような本質的なことを別にしても、もっぱら人形の動きに釘付けだった子供たちといえども、微妙なようで決定的である、浄瑠璃の知られざる効果がじわじわと効いてくる劇場の音響空間のなかにどっぷり浸かっていたことは想像に難くない。劇場は人にそれを強制する。そこがいいのだ。それにしても「瓜子姫とあまんじゃく」のなかで「無意識」という口語(?)が使われていたのが私は妙に気にかかったが、それでも、子供の頃に人形浄瑠璃を見たという体験は、無意識裡に、無条件に、彼らを別の世にかどわかし、連れ去ったことだと思う。そうでなくっちゃ。それこそ「あまんじゃく」のように、すべては鸚鵡返しのコダマの効果のうちにあり、そもそも人形と子供、言葉と子供は合わせ鏡のようになっているからだ。

幕間の「ぶんらくってなあに」という黒衣の体験コーナーの時間、自分からすすんで黒衣になりたいと手を上げた子供たちが多かったのは少しうれしい意外だった。親が、とりわけ母親が率先して手を上げていたのには失笑してしまったけれど。 幕が下りたとき、子供たちは愉しいトラウマを受けたのかしらといらぬ心配をしながら席を立ったのだが、ホールの情景を見てそんなものは単なる間抜けな大人の杞憂にすぎないことがわかった。ホールには青鬼、赤鬼、あまんじゃくらの人形が特別にお出ましになって、子供たちと対面していたのだが、泣き出す男の子も女の子も散見されて、私はなぜかほっとした気分になった。子供たちは十分愉しいトラウマを享受していたのである。 原爆の漫画『はだしのゲン』を小中学生がトラウマを受けるとか受けないとかで制限図書にしたなどとどこかの教育委員会の愚かなニュースはまだ耳に新しいが、「トラウマ」(いったいトラウマって何だ!?)でさえも、子供たちが大人たちよりも繊細であるからこそ、子供たちはそのことをちゃんと知っていて、大人たちが自分のことを棚に上げてとやかく言ったり、子供の行動を制限したりするようなことではないのである。子供のための文楽にだって、ちゃんと「行動の原理」というものが書き込まれている。トラウマなんておおげさな言葉じゃなくてもいい。それにこんな場合、トラウマなんて言葉を使ってはいけないのかもしれない。 だが、そうは言っても、行動の原理には「傷」がともなう。傷は花びらのようにいたるところに開いていて、「傷」自体が誰よりもそのことを、つまり行動の原理がそこにあったことを知っている。あるフランスの作家が言っていたように、傷はわれわれ以前に存在するのだ。芸がその「傷」でなければ、いったい何のためにあるというのか。泣いている子供たちを見ながら、私はそんなことを思っていた。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2013年8月5日「金太郎のおおぐも退治」「瓜子姫とあまんじゃく」観劇)