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文楽かんげき日誌

死に様の見せ方

玄月

〈物語〉はすでに、語り尽くされている。だれも聞いたことのない〈お話〉など、もはやない。表現者は、なにを表すかではなく、どのように表すかが、問われている。 映画化もされた『地下鉄のザジ』で知られるフランスの作家・レイモン・クノーに、「文体練習」という著書がある。ある小さな出来事を、99種類の文体で書き分けている。ひとつひとつはとても短い。おなじ場面が手を替え品を替え表現されていて、読み進めていくと、おもしろいのだが、万華鏡を覗いているようで頭がクラクラしてくる。 このクノーの試みは、語り尽くされたあとの〈物語〉を、どのように語っていくかの実験でもある。

『心中天網島』を観る前から、『曾根崎心中』との比較になると思っていた。設定やストーリーの比較ではない。両者の設定とストーリーには、似ているところも似ていないところもある。乱暴なほど大ざっぱにいえばおんなじ話だし、まるでちがう話だともいえる。叶わぬ恋の末に、心中を選ぶ、それまでの過程には、無数のストーリーがある。人間ひとりひとりの人生がだれともおなじでないのと同様に。 逆の言い方もできる。叶わぬ恋の末に心中を選ぶに至るふたりの追い込まれ方、心理は、似通ってくる。恋愛における人間の行動や心理がある程度類型化されているのだから必然である。

なんにしろ、設定やストーリーの比較には意味がない。〈物語〉はすでに語り尽くされているのだから。どのように表現されているかが重要なのだ。そこで私が今回注目していたのは、心中の仕方である。 『曾根崎心中』では、ためらう徳兵衛を、お初がせかす。 「はよう殺してはよう殺して」

客席に背を見せるお初に、正面を向いた徳兵衛が刃を向け、突き刺す。返す刀で自らの喉を突く。吹っ切れた徳兵衛の素早さと、見せる角度がすばらしい。普通の演出なら、ふたりを舞台と平行に並べて、刺し方や両者の表情を見せようとする。お初に背中を向けさせることによって、客の視点はお初とおなじになる。徳兵衛のしぐさが真に迫ってくるのだ。

これらを踏まえての、『心中天網島』。心中場面が近づいてくると、私は緊張してきた。治兵衛は妻も子供もいる紙屋の主人なのだが、浅慮な怒りから小春に対して暴力をふるうなど、自分勝手で幼稚なところがある。対して小春は、十九歳とは思えない思慮深さと我慢強さと、深い情を持ち合わせている。

治兵衛が小春を刺す。小春はのたうち回る。治兵衛はとどめをささず、小春の赤い腰巻きを切り取ろうとする。のたうち回る小春を見ていられない。 なぜとどめをさしてやらない? 治兵衛はどこまで自分勝手で無慈悲なのだ。這うようにして見上げる小春の視線の先で、治兵衛は切り取った腰巻きを木にくくりつける。そして首を吊る。 私はまだ気づかず、後味の悪さを感じていた。治兵衛が潔く死ぬのはいいが、小春をあれほど苦しませることはないだろうにと。

幕がおりた直後、背中にサーッと悪寒が走った。 治兵衛は、わざと、とどめをささなかったのだ。自分が首を吊るところを、小春に見せるために。これは、治兵衛の思いやりだったのだ。そういえば、小春を刺したあとの治兵衛の行動にためらいがなかった。それまでの幼稚さとは断絶している。この覚悟に、小春は救われただろう。 納得すると、見たばかりの場面がまざまざと脳裏に甦った。『曾根崎心中』とは大きくちがう。平面的に治兵衛の行動や小春の状態をつぶさに見せ、やがてふたりに微妙な距離をあけさせる。木からぶらさがる治兵衛を、這いつくばったまま見上げる小春の構図は、見事だった。

■玄月(げんげつ)
作家。大阪南船場で文学バー・リズールをプロデュースし、経営している。1965年生まれ。大阪市立南高等学校卒業。2000年「蔭の棲みか」で第122回芥川賞受賞。著書に、『山田太郎と申します』『睦言』『眷族』『めくるめく部屋』『狂饗記』など。大阪府在住。

(2013年4月23日『心中天網島』、25日『伽羅先代萩』『新版歌祭文』『釣女』観劇)