今回、初めて文楽を見せて貰った。『心中天網島』(4時間)。 まず当然の話ながら、文楽はハリウッド映画とは全然違った。300年前から変わっていない大夫の義太夫節は極めてとっつき難いし、一つの言葉の引き伸ばしが余りに長く、うっかりすると「ゲシュタルト崩壊」のような事になって意味不明の虚空に放り出されてしまう。話の筋についていけなくなって、ふと大夫の方を見ると物凄い顔で唸っていて、暫く見とれていた。すると益々集中力が切れて、人形遣いの内で唯一顔が見えている「主(おも)遣い」を眺めつつ、彼がポーカーフェイスを保つのはさぞ難しいだろうと考えたり、フィギュアスケートの浅田真央の人気の秘密は、彼女の顔が「娘」という首(かしら)にそっくりだからかと納得したりして、始めは随分気が散っていた。
かように文楽ビギナーの私は、間違いなく最低レベルの観客であった。戦前までの庶民はもっと気楽に楽しめたろうが、今は言葉の壁もある。明治のベストセラー小説の『金色夜叉』ですら現代人はスラスラ読めないのに、文楽は江戸時代にそのままタイムスリップした劇空間なので、そう簡単に分かろう筈がないという思い込みもあった。4時間というのも長過ぎて、映画ではテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』(230分)ぐらいしか思い浮かばない。勿論私は、映画の途中で意識を失ったが、文楽同様最終的には楽しめた。 長時間で尻は痛くなったし、席に勾配が殆どないので前の客の頭が邪魔で舞台の中央が見えなかったし、途中でニコチンが切れて苛々したし、後ろのオバサン連中の話し声がうるさかったにもかかわらず、である。
最初の思い込みとは異なって、じっと観劇していれば、我々は300年前の言葉がかなり分かるのだった。始めは「あいつ、空飛んでるぞ!」などと思っていた人形の動きにも、驚くほど心動かされる瞬間があり、それは時間と共に増えてくる。こういう事は個々人の教養の問題ではなく、明治以降になっても言葉の構造自体は変わっておらず、世話物のエートスも我々にとって馴染みのものだからで、一般的なパターンではないかと思う。 そうなると、これは名文だ、という台詞も耳に飛び込んでくる。 「夫の恥と我が義理を、ひとつに包む風呂敷の内に、情けを籠めにける」 書いただけでは恐らく伝わらないが、大夫が語ると実に素晴らしいと感じ入らざるを得ない。
人形にしても、漫然と見ていたのでは駄目だが、能動的に集中して見入るだけで、人形の首(かしら)や身振りが意味を帯び、何でもない手付きや肩の震えが心の襞を撫で回してくるのである。暫くすると、それらは向こうから与えられるものではなく、どうもこちら側がある程度好き勝手に付与しているらしいと気付いた。個人的な記憶や感情の断片を、人形のちょっとした動きに引っ掛けて引き摺り出し、半ば自虐的に気持ちよがっているらしいのだ。そしてそのためにこそ、彼らは人形なのだと分かった。首の表情は死んでいる。死んでいる首に命を与えるのは、観客なのだ。これは相当能動的な脳内操作であり、しかしそのために必要な時間は、肝心な場面ほど充分に用意されている。物語の展開が異様に遅いからこそ、観客は受身の姿勢から、主体的な構えへとシフトせざるを得ないという仕掛けだ。
そうと分かると、俄然面白くなる。この、ハリウッド映画とは正反対の鑑賞態度を自分のものにしない限り、余りにかったるくて「二度目は行かない」という事になるに違いない。少なくとも私は、その禍は免れた。 物語に入り込む仕方には様々なレベルがあり、どんなに深く入り込もうとも、それに対する制限のようなものは全く感じられなかった(これは、技芸員のレベルの高さを物語っていると思う。何でも受け入れ、反映させ得る懐の深さ。稚拙な芸だとこうはいかないだろう)。
入り込み過ぎて「やばい」と思える瞬間もあった。具体的には紙屋治兵衛が遊女小春との関係を兄に責められる場面で、治兵衛に過去の自分の情けなさが重なって精神的に危ない領域に落ち込みそうになった。しかしこちらが人形に感情移入し過ぎると、三人いる人形遣いの存在に自然と目がいき、すると忽ち意識が現実に引き戻された。彼らは我々の意識をリセットするためにこそ、あんな丸見えの位置にいるのではないかという気がした。そして、彼らの存在を消したり現したりするのも、我々次第なのである。大夫や三味線弾きの存在も、海に浮かぶ「浮き」のような効果をもたらし、それに掴まって劇空間から顔を上げ「ああ、自分は今文楽を見ているのだ」と思った瞬間、理由もなく嬉しくなったりもした。観客が「我に返る」事まで計算に入れたこの多次元構造は、文楽独特のものだと思う。
確かにちょっと変わった芸能だ。 マクロ的にもミクロ的にも楽しめるし、突っ込みどころも多い。差別用語も頻出。人間の集中力は20分が限度なのに、『仮名手本忠臣蔵』など10時間もある。つまり「自由にやって下さい」という事なのだと思う。従って見る者は、自分で自分の意識を操作する事が求められる分、恐らく途中で寝てもいいのだ。少しぐらいなら、お喋りも許されるのかも知れない(いや、どうかな)。
人間は、見たいものしか見ない意識体である。ある計算によると、脳の視覚野が実際に受け取っている外界の視覚情報は3パーセントに過ぎず、あとの97パーセントは脳の内部情報だそうだ。つまり、この世界は人間の脳が勝手に作り上げているのである。文楽は、表情のない人形という媒体を使う事によって、かえって観客の自由なイメージを自在に引き受け、人々の目に、各々が見たいものだけを見せているのかも知れない。すると人形は、悉く我々の鏡ではないか。
面白い経験をさせて貰った。見て良かった。今回は、文楽以上に「自分」を見たという印象を受けた。私の中にはもう一人の紙屋治兵衛がいて、治兵衛の一挙手一投足を「この、馬鹿めが」と罵り続けていた。本当に情けなさの極まった男なのだ。だがその醜態を「観劇」する事がもたらす、そのカタルシスたるや。これは、長時間の自力による意識作用の積み上げと、その感情の鬱積を人形に託せる仕掛けがあればこそもたらされる、一種の自己解放と言ってよい。人形の治兵衛が心中し、自分の中の治兵衛も少なくともその瞬間だけは狂態の中で死に絶えた。しかし死んだ筈の治兵衛は忽ち蘇生して、心の中に再び巣食う事も分かり切っている。だからこそ文楽には、リピーターが多いのかも知れない。
きっと文楽の世界には見たくもない化け物の類が沢山潜んでいるのだろうが、それは畢竟自分の心の中の化け物である。従って、自力で適切に「脳内処理」するしかない。その自信はないが、深い穴があると知ったら覗かずにおれないのが人の性であろう。むしろ嫌なものほど、それが自分自身の嫌さである限り見たいものだ。否応なく惹き付けられ、辛い辛いと泣きながらも、その実気持ちよがっている。この点に於いて、文楽は一種の自力精神療法かも知れないと思った。 『心中天網島』は、少なくとももう一度見なければと思っている。そして今度は心を空にして臨む。二度目なら、そんな事も出来そうな気がする。
■吉村 萬壱(よしむら まんいち)
作家。1961年生まれ。愛媛県出身。京都教育大学教育学部卒業。1997年「国営巨大浴場の午後」で第1回京都大学新聞社新人文学賞受賞。2001年『クチュクチュバーン』で第92回文學界新人賞受賞。2003年『ハリガネムシ』で第129回芥川賞受賞。
(2013年4月29日『心中天網島』観劇)
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