近松門左衛門作の人形浄瑠璃『心中天網島』を見た。 それにしても主人公の紙屋治兵衛は、とりたてて特異な存在というわけでもないが、それなりにとんでもない男である。演歌の「昭和枯れすゝき」どころではない。この男の無責任さと性格の弱さと人並みの欲望、要するに彼の度し難いわかりやすさと、それほど異常とも言えない嫉妬や、水もしたたる色男ぶりのせいで、心中相手の小春や女房のおさんばかりか、周りの人間すべてが不幸のどん底に突き落とされるという当時の三面記事をそのまま芝居にしたものだから、近松の冷酷なまでのリアリズムも大いに手伝って、このけちょんけちょんな話はそれなりに「凄惨」である。これは作家の筆致がどうであるなどというものではなく、どう考えてもそうとしか言いようがない話だし、つまりまっとうにそう言えるのである。これが救いようのない暗い話であり、またそれこそが芸そのものを生み出している、とひと事のようにまっとうに言えるということは、まっとうな人間でいることなど、舞台でまるでひとりでに演技をしているかのような人形たちからしても、なかなか夢のまた夢だということになるのかもしれない。
…… 共に口説き泣き 後ろに響く大長寺の金の声 「南無三宝、長き夜も夫婦が命短夜」 とはや明け渡る晨朝(じんちょう)に 「最期は今ぞ」 と引き寄せて、後まで残る死に顔に 「泣き顔残すな」 「残さじ」 と気を取り直しひと刃(やいば) 刳(えぐ)る苦しき暁の 見果てぬ夢と消え果てたり
こんな風に浄瑠璃は終わっているのだが、昔は盃を手に、お弁当をほおばりながらこの残酷で身も蓋もない事件の顛末を、たまには涙も流して呑気に見届けたりしていたのだから、われわれの芸能というか、江戸時代から続く娯楽というのはじつに奇妙なものだと言ってもいいかもしれない。いまはさすがに見つからないように、こっそり隠れてでもなければ観客席で酒を飲むことはできないが、現代のわれわれ観客だって、どれほど身につまされようとも、呑気に見ているという点では似たようなものである。席がかなり後ろの方だったし、私は目が悪いので(オペラグラスを持ってくるのを忘れてしまった)、人形の細部の動きをよく見て取ることができずに、最初からぼんやりと離人症のような夢幻劇のなかにいて、つまり他人の夢のなかにすでに棲みついてしまっているみたいに感じていた。そんなこともあって私は、昔も今も同じようなものだなどと、ふとそんな不埒なことを思ったりしたのである。こうして私は図らずも、たぶん私自身の意に反して、江戸時代の大坂の庶民のひとりになっていた。
浄瑠璃自体のもつ言葉の「結構」と三味線を交えた「音」が、つねにある種の決定的な異化効果を及ぼすことに絶大な力をもっているというのは確かにそうではあるが、つまり結局のところ逃げ場がないのだが、そうはいっても、私にとってやはり人形浄瑠璃の芝居はつねに遠くで、向こうの方で起きている何かであり続けていた。われわれはその何かと連絡を取り、そこに時々入り込もうとする。うわの空で。あるいは時には極度に集中して。それは他人の夢のなかで語られる登場人物たちの消息にあまりにも似ているのではないか。他人の夢を覗き見ている私がここにいるのと同じことなのではないか。自分の夢ならば、その瞬間、そのつど、通常は自分が夢を見ているとは思わないからである。他人の夢の中では私は私自身を消すことができない。そうはいっても現実の中にいるしかないわれわれは、われわれの事情とこの重たい肉体を抱えたまま、他人の夢のなかに時おりそっと入り込んで悪さでもしようとしているのか。うまく行けばのことではあるけれど……。そうであるなら、われわれはいま夢を見ている最中なのだから、治兵衛や小春とは違って、われわれは不死身であるとでも思っているのだろうか。思っている? 私は何かを考えているのか。なるほど思考は夢と同じ実質をもっているだけではなく、同じ素材でできているからだ。だが他人の夢といっても、夢の登場人物は誰なのか。ほんとうに気がかりなのはそれが誰かということではないとはいえ、ここでは、ひとつにはそれが人形であったということだけは恐らく間違いない。
だが、今回は人形自体のことは少し脇に置いておこう。人形とわたしたちを媒介しているものがある。彼らは舞台の上にいるではないか。人形を操っている三人の人形遣いである。そして彼らはみな黒衣である。最も重要なパートを受け持つ、つまり人形に主たる命を吹き込むのは主遣いと呼ばれる遣い手である。人気者であるこの主遣いはいまでは顔を出して、おなじみの黒衣のいでたちをしてはいないが、人形遣いなのだから黒衣であることに変わりはない。そして黒衣とはどこまで行っても影の存在であり、つまりは舞台の上の芝居の成り行きの上では存在しない人、存在してはならない人である。これはじつに奇妙なことであり、ある種の日本的形式、いわば日本風のスノビズム(ヘーゲル学者であるコジェーブが言うような)であり、その独自性の極致であると言ってもいいし、観客の誰もが了解していることであるとはいえ、じつはこの取り決め自体は、芝居が生のある種の踏襲であり、模倣であり、再現であり、生そのものになろうとするものであるという観点に立てば、きわめて不自然なものである。 それなら黒衣というこのじつに独創的な形式は、劇を支配している何か、いわばひとつの超形式となり得るものなのだろうか。そうかもしれない…。ちょっと見たところでは…。劇を支配する? だが実際、そんなことが可能なのだろうか。逆の現象が起こっているのではないか。私の気があまりにもそぞろで、散漫になればなるほど、劇は劇場の外で起こっていることに限りなく近づいてしまうように私には思えるのだ。私は自分の言っていることがわからなくなる。舞台をもう一度じっと見詰めてみる。私は黙したまま「虚構」について、フィクションのメタレベルの連なりについて考えているのか。一般的な意味での「演出」のことを無言の話題にしようとしているのか。それら全部を? 文楽はさまざまな意味で、つまり相反する幾つかの意味で、不思議である。私は客席に一人でいて、目には見えない盃を酌み交わし、幻の肴をほおばっている。所詮は、他人の夢だ。私は夢を見てはいない。私自身もまたそこで何かを演じ、もぞもぞとからだを動かしている最中かもしれない他人の夢しか知らないのだから。そして芝居も芝居を見ている自分も全部そんな風に、そんな素材でできているような気が次第にしてくる。これは手品なのか。
……治兵衛(の人形)が首を吊る。幕が引かれる……
他人が見ていた夢の中からふと我に返ると、偶然、前列斜めの席にいた女性と目が合う。京都在住の評論家Hの奥さんだった。彼のほうは隣の席でにこにこしている。 「やあ、こんにちは」 席を立とうとして振り返ると、これまた知り合い夫婦とばったり。彼らとはつい先日友達のやっている神戸のバーで出くわしたばかりだった。 私は一人で文楽劇場から外に出た。夜の空気を吸って、あたりを見回した。狐につままれたような気分だった。
■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。
(2013年4月23日『心中天網島』観劇)
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