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国立文楽劇場

開場40周年記念文楽かんげき日誌SPECIAL
キレッキレの近松 『女殺油地獄』を観て

三咲 光郎

 国立文楽劇場開場40周年記念の公演です。
 朝日座から現在の地に移った当初は、道頓堀五座のあった繁華街から離れた所へ行きはったなあ、と思ったものでしたが、今ではすっかり日本橋のランドマークとして人を集め親しまれています。町を歩いていて、江戸風と現代風を交えた黒川紀章さん設計の建物と色とりどりののぼりが見えるとほっとします。今回は、近松門左衛門没後300年記念の『女殺油地獄』を観にいきます。

 女殺し、のタイトル通り、23歳の不良青年河内屋与兵衛が油屋の妻お吉を刺殺するという、実話に基づいた舞台です。享保年間の初演以来、昭和までずっと上演されていませんでした。
 こんな大傑作が長い間忘れられていたのか? と不思議に思いますが、ドラマの衝撃度に、当時の観客も演者もとまどってしまったのかもしれません。
 主人公の河内屋与兵衛は先にもいいましたが不良、ワルです。というより「ダメ男」です。
 冒頭、徳庵堤の段では、馴染みの遊女が別の客と野崎参りに行くと聞き、悪友たちと待ち伏せして喧嘩を売る。遊女が営業トークで取り繕うと、うれしくてデレデレする。喧嘩に巻き込まれた侍が無礼討ちにすると怒ると、
 「斬られたら死なう、死んだらどうしよ」
とパニックに陥り、あたふた、めそめそ、うろうろします。
 たとえ主人公がワルであっても、意地を張って見得を切ったり、反骨精神や内面の人情味が垣間見えたりして、かっこいいものですが、与兵衛のダメっぷり、クズっぷりがこれでもかと描かれていきます。
 次の河内屋内の段でも、金をもらおうとして親に嘘をつき、うまくいかないと、育ててくれた義父を殴る蹴る踏みつける、病気の妹も踏みつける、母を棒で打つ、と家庭内暴力が止まりません。
 小説を書くときには、編集者から、読者が主人公に感情移入できるように、とか、主人公は物語の終わりでは人間として成長しているように、とか注意されます。だったらそんなお約束を無視したこのお話はボツ案件となってしまいそうなんですが……。

 明治時代になって、坪内逍遥が、この作を読んで感じたのは無限の私欲と義理人情の世界との軋轢だ、世間を知らぬわがまま者と世間との撞着だ、と書いています。
 芥川龍之介は、悲劇は与兵衛一人の「病的背徳性」という例外的人格から起こったものであって「我々ノーマルな人間」がこの作をもって自らを省みる必要はない、と書いています。
 また、歌舞伎の世界ではこの作が明治の終わり頃から再演されていましたが、与兵衛のキャラクターを演じるのに二通りのタイプがあったようです。ひとつは、口先で適当なことを言う冷酷非情な悪人タイプ。ひとつは、義理人情はわきまえていても借金でどうしようもない状況に陥って凶行に及んでしまう人間的なタイプ。
 与兵衛をどう見るかは人によってさまざまなようです。

 確かに、与兵衛という人物像には、誰もが自分で納得できる解釈が欲しくなります。近松の床本は、家族やお吉の心情は語られているけれど、与兵衛の内面描写は少なくて(せりふは嘘をついているとも読める!)、解釈の幅が広いといえます。
 私自身も、与兵衛の印象は床本を読むたびに変わります。この頃私は、与兵衛を、
「世間とは水と油の欲望モンスター」
だと思っています。
 世間とは義理と人情の世界です。親子の愛情、ご近所さん同士の思いやり、主従の恩義。この作に出てくる人たちも皆そんな心のつながりで結びついて語りあったり嘆きあったりしています。その中を、与兵衛だけは、人の気持ちをまったく理解せず、関心を持たず、感動せずに漂っている。水の中に、油のひとかたまりが周りとまじわることなく動いていくみたいに。
 もちろん仕事もするし人並みに善悪を口にしますが、心は冷ややかな空洞のよう。悪友や遊女、借金取りへのメンツ、男気が行動のもとになってはいるけれど、けっきょく自分の欲望のままに周囲に迷惑をかけ傷つける不条理なモンスターだと読めるのです。

 さて、令和の現代、文楽の舞台では、与兵衛はどう表現されているのか?

 実際に劇場で観て体感していただくとして、舞台で、目の前に現れた油地獄の迫力には、私のちっぽけな解釈をはるかに越えた説得力がありました。そこにいる与兵衛の存在に圧倒されてしまいました。
 近松門左衛門69歳の作です。晩年にありながら、この時の近松は、キレッキレに冴えて筆を走らせていたにちがいありません。

■三咲 光郎(みさき みつお)
小説家。大阪生まれ。関西学院大学文学部日本文学科卒業。堺自由都市文学賞、オール讀物新人賞、松本清張賞、仙台短編文学賞、論創ミステリ大賞を受賞。著書に『群蝶の空』『忘れ貝』『砲台島』『死の犬』『蒼きテロルの翼』『上野の仔(のがみのがき)』『お月見侍ととのいました』『空襲の樹』など。

(2024年7月24日第3部『女殺油地獄』観劇)