高校生のとき、生まれて初めて見た文楽が『曾根崎心中』だった。
以来、何度も見ている演目だけどなぜだろう。
今回の幕切れのお初・徳兵衛が、今までで一番はかなく、そして美しく見えたのは。
ほかの心中ものに比べると、『曾根崎心中』はストーリー構成がとてもシンプルだ。
お初・徳兵衛のつかのまのデートに始まり、徳兵衛がお金をだまし取られて心中を決意、曽根崎の森で心中。これだけだ。
『心中天網島』のように心ならずも愛想づかしを言わされたり、また、「ほかに好きな男ができたのでは?」と嫉妬したり、恋のライバル出現てなこともない。
ついでに言うと、ふたりの恋のはじまりも描かれていない。
『曾根崎心中』のみならず、文楽作品に出てくる恋愛のほとんどが両想いの状態からスタートしている。少女漫画によくあるパターンの「あの人はわたしのことどう思ってるんだろう」「告白して、断られたらどうしよう」てなドキドキの片思いはほぼ存在しないのだ。
四月公演第一部『妹背山婦女庭訓』小松原の段にしたってそうだ。
雛鳥と久我之助も、互いにひとめぼれから腰元の助けを得てすぐにカップル成立してしまう。
ひとりでウジウジ悩むのではなく、カップルになった状態からふたりで困難に立ち向かうのが文楽のパターン。頭の中で悩みすぎて立ちすくむ人ではなく、実際に生活していく上で起こる問題に立ち向かう人を描いている。
そういう意味で文楽は生活者としての「大人」を描いた芸なのだと思う。
『曾根崎心中』に話を戻すと、お初も徳兵衛も、互いに「相手のことが好きだ」ということに関しては一点の疑いも持っていない。昨年夏のかんげき日誌にも書いたように、自分の気持ちにウソのない台詞をしゃべっている。それが心地よい。
「天満屋の段」で、縁の下にいる徳兵衛にお初がそれとなく心中の決意を伝え、徳兵衛もまたそれに同意する有名な場面。ここを見ていて頭に浮かんだのが、プッチーニのオペラ『マノン・レスコー』だ。
コロナ禍のはじめ、まだどの劇場も閉鎖されていたころ、わたしの心の支えになっていたのがニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の日替わり配信だった。
毎日毎日、いろんな時代・いろんな歌手のオペラが無料で配信され、勉強のつもりで見ていた中で、わんわん泣いてしまったのが世界的なスター歌手、ロベルト・アラーニャが出演した『マノン・レスコー』である。
金持ちの老人に囲われているマノンと騎士のデ・グリューは恋に落ち、駆け落ちを図るものの、すぐに発覚し捕まってしまう。怒り狂った老人の報復によりマノンは娼婦として売られ、フランス領ルイジアナ行きの船に乗せられる。追いかけてきたデ・グリューは「おれもその船に乗せてくれ!」と恥も外聞もなく泣き叫ぶのだ。
ここがすごい。
この船に乗ったなら……もう現世での幸せは望めない。今までの地位も名誉も財産も、みんな捨てることになる。それでもなお「この女をほっておけないんだ!」と泣き崩れるデ・グリューに、泣いた。泣きながら思った。“これって、この時代に二人でアメリカに行くって、もはや心中やんか”と。
いまの生活も、もしかしたら今後ありえたかもしれない幸せも、みんな投げうって一緒に死のうと言ってくれた。自分なんかのために。
マノンも、そして縁の下の徳兵衛も、どれだけ幸せだっただろう。
そして、打ち掛けの中に徳兵衛を隠すお初の姿にユーミンの曲が重なってきこえた。
「守ってあげたい あなたを苦しめる全てのことから」 (松任谷由実『守ってあげたい』)
なぜなら、愛してるから。
はじめから最後まで、疑いのない愛しか描かれていない。
だからこそ、心中するふたりがこんなにも美しく見えたのかもしれない。
(2023年4月13日第3部『曾根崎心中』観劇)
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