国立文楽劇場の前の桜が咲くと、4月公演の幕が開く。桜は見る者をうっとりとさせ、何かこの世ならぬものに誘う妖しさ、ふわふわと地に足のつかないような浮遊感を覚える。そしてこの国立文楽劇場は、文楽座命名150年、豊竹咲太夫の文化功労者顕彰、3人の切語りの誕生という3つのめでたい春を迎えている。舞台には、『義経千本桜』『摂州合邦辻』『嬢景清八嶋日記』『蝶の道行』など、人の心をとろかせる魅惑的な花が競い合って咲いている。 とりわけ、私が心惹かれた第二部の『摂州合邦辻』は様々な意味で人の心の不可思議さ、理性を超えたものの存在を感じさせる。その空間は上町台地にある四天王寺を中心に、河内平野と熊野街道に広がる「大坂」の世界である。 このドラマの主題は、玉手御前の「恋」である。だが、彼女が本当に恋していたのか、彼女の言うように、それは主家への忠義であるのか、これを見た多くの人は、実は玉手は俊徳丸に恋をしていたという説に同感する。しかし本当に、玉手は恋をしていたか? 確かに合邦女房の言うように、玉手の夫、高安左衛門通俊は、もとは主君、「二十そこらの色盛り」という年齢で、年若く美男の義理の息子が魅力的に映るのは当然だろう。だが、彼女は高安の屋敷で、周囲からもそう見られていた。今回は上演されていないが、彼女が高安の館で、古参の侍女たちにどう見られていたかがわかる場面がある。彼女が館を出奔した時、「なぜあの人が」ではなく、「ああ、やっぱり」という目で見られていた。周囲は彼女が邪恋の故に俊徳丸を追って家を出たとしか見ない。その悪意の中で、継子2人の家督争いを、いかに双方を傷つけずに解決するか、まさに四面楚歌の中で、彼女は、おそらく誰にも理解されない、「鮑の片思い」となる自分の使命、ただ俊徳丸を救うために、自分の命を投げ出すという行為に出る。 こうした劇の全体性から、文楽の方々は、「恋ではない」という解釈を採られることが多い。 故文雀師の玉手はまさにそうだった。武士の廉直と主家への忠義のため、父との絆に生きる娘であった。そして今回の和生もその解釈を踏まえている。だが、一度だけ、簑助師の玉手を見た時、それは彼女の中に眠っていた、女性としてのエロスとタナトスの交錯であると思えた。生身の肉体でないからこそ、白い肌の下に鎖された情念が、浮き立つように思われた。三味線の華やかな手がそうした眩暈のような感覚をさらに高める。 呂太夫は、玉手の俊徳丸への恋ではない、と言い切る。それは床本を見れば、原作を見れば明らかである。 だが、見る人の多くは玉手が俊徳丸に恋をしている、と想像する。なぜそうなるのか。それこそは作者の仕掛けた逆転劇の妙である。玉手の前半のクドキなど、とても演技でやってるとは思えない。だが玉手からすれば、俊徳丸に言い寄る姿、浅香姫との乱闘(?)、それらは真実に見えなければならない。そうでなければ父は怒りのあまり娘を刺し殺すという凶行に至ることはできない。玉手の中には、そうした周囲の人の思惑、人柄、それらを知って自分の描いた結末へと運ぶ、冷徹な計算がある。しかしその計算、計画そのものが、ある種の狂気に満ちているとさえ思われる。彼女はその時、自分が本当に俊徳丸に恋していると思ってそうしていたのだろうか。言葉は現実を作る。彼女は自分でも知らぬうちに、「義理の息子に恋をする」という設定にはまり込んでいたのかもしれない。相手のために死ぬほどの、あるいは父に自分を殺させるほどの狂気を促すためには、そこまで自分を追い込む必要があったのだ。それは彼女が望んだことだろうか。それとも、自分でも認めてはならないと思う心の底で、密かに思っていたのだろうか。 「寅の年寅の月…の肝の臓の生血」で癒されるなど、現代人は当然だが、昔の人でも、いささか苦しい設定であり、理論的に納得できる話ではない。ただそれを納得させるのは、「奇跡」という一回性と、玉手の情熱である。自らを殺させ、相手を救う、恋と言われればそれと紙一重の情熱。それを人は恋と錯覚するのだろう。 しかし、その犠牲に至る玉手御前の思いの純潔さがなければ、実はこの逆転のような犠牲は成り立たない。そうした逆転劇が、この「天王寺」における仏の救い、合邦が語る「地獄極楽は元来一つの世帯なり、善悪邪正不二といふ仏の教へは、コレコレこの天王寺」の具体化である。悪が善に、邪恋が献身に、不義が忠義に、逆様事が善知識になるために、意外にも、この玉手の思いは純潔でなければならない。つまり、純粋な忠義(それも夫への)でなければならない。 呂太夫が「忠義」であるとの立場をとるのは、そうした浄瑠璃世界の逆説を表現することを理解しているからではないか。そこで初めて、この物語は単なる個人の悲恋ではなく、天王寺という寺に込められた仏の救いの教え、それを取り巻くこの地の力と一体になる。この舞台の持つ陶酔と客席と舞台の一体感はそこにある。 切語りとなった呂太夫が、祖父十世若太夫さながらの迫力で語り、清介の三味線が応え、和生の人形はそれを具現化する。太夫の一貫した姿勢、三味線の技巧、人形の妙、そのあわいに生まれる共同幻想のように、この複雑で怪奇な物語が、不思議な説得力をもって私たちに迫ってくる。恋したというのではない、しかし恋していないともいえない、彼女自身も知りえない情念の正体を垣間見るような、そんな秘密に触れた気がする。三業一体の文楽なればこそ、この奇跡というべき一体化が成り立つのである。 なお、第一部は『義経千本桜』の「道行初音旅」で光あふれる桜の吉野を、また勘十郎の狐忠信の大活躍にとにかく圧倒される。切語りになった錣太夫の憧れを呼び起こす艶ある語りの美しさに、思わずぼうっと身体も浮き立つような楽しさが溢れる。ただ四段目切を語られた咲太夫の途中休演が案じられる。 第三部は『嬢景清八嶋日記』「日向嶋の段」で同じく切語りに昇格した千歳太夫の渾身の語り、平家の生き残りとして、武士の矜持に生きることの虚しさ、娘の哀れに胸を打たれる。景清の心中いかばかりか、その孤独と悔恨の痛ましさが迫ってくる。 新しく昇格した切語り三人の、それぞれの力を遺憾なく発揮し、これからの新しいスタンダードとなる語りを心ゆくまで堪能させていただいた。切語りとは、時代も世話も標準となる語りの技術を持ち、なおかつその人ならではの個性を通じて、義太夫節と文楽の世界の独自性と唯一性を作り出す人である。そしてこれは始まりに過ぎない。桜は散っても、長らくの冬を超えて開いた舞台の花はますます豊かに咲き誇るのだから。この後も続く充実の舞台を、ぜひ多くの方に見て頂きたい、と心より願う。
■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。
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