「どうして治兵衛は死ななくてもいいのに死のうとするの?」「おさんはどうしてあんなに治兵衛のために尽くすの?」「わからない、というより、納得できない」
これらは初めて文楽を見た、あるいは何回か見た友人たちの、『心中天網島』を見た率直な声である。私たちと江戸時代の人々との言語や風習の差、思考や常識の差、何より「死」への意識の差であろう。『心中天網島』は近松門左衛門の最高傑作の一つであり、晩年の作である。しかしなぜ二人が心中しようと約束したか、そのことについては触れられない。まず、そこに躓いてしまう。
そもそも治兵衛は紙屋の主人で自分の店があり、女房子どももある。28歳の、もういい大人であるはずなのに、「魂抜けてとぼとぼうかうか」の様子など、とても大人の男のやることではない。むしろ小春が孫右衛門に言ったように、会えなくなっていつか、いつかと期を延ばしているうちに諦める方が、すべての人にとって良いはず。なのに、なぜ二人は救いようのない死を選ぼうとするのか、そこが最大の謎である。死ななければならない必然性はどこにもなかったはずが、逆に心中へと追いつめられる悲劇。小春はなぜこんな男を「身にも命にも換へぬ大事の殿」とまで思って、その男のために一人黙って死のうとしているのか。もったいない、やめておけ!と小春を止めたくなるのは私だけではないだろう。そして女同士の義理のために、自分や子どもの着物まで質に入れてまで小春を救おうとするおさんの健気さと芯の強さ。やっぱり駄目なのは治兵衛だけだ。
しかしそれでも「道行名残の橋づくし」の果ての二人の死には理屈抜きに胸を突かれる。愚かさとも、苦しみとも、そうした人のもろもろの弱さからの死。近松の目の確かさ、人の心の奥に触れる悲しみを生み出す力がある。
それに比べて第三部の『花上野誉碑』「志渡寺の段」は、仇討ものだし、勧善懲悪だし、色気のある男女の揉め事もない。だが、両者には不思議な共通点がある。合理的な解決がありながら、それを避けてあえて困難な、破滅の道を行こうとしていることだ。
「志渡寺」の乳母お辻。彼女は無念の死を遂げた主君の忘れ形見、坊太郎が口のきけない病にかかっている(と信じさせられている)ために、その病の癒しを祈念して金毘羅大権現に願を掛け、穀物を断ち、果物のみで命を繋いでいる。衰えはてた身体で、桃を盗んだと疑われる坊太郎に、父の無念の死、侍の子たる誇りを忘れるなと諭す。その坊太郎の思いを見て、愛しい我が子のように抱き寄せる母性。親の縁薄いその子への、本当の母のような優しさ。そしてそこから一転して、「この和子が業病、一度本復なさしめて、本望遂げさせたび給へ。」と一念を込めて水垢離を取り、「南無象頭山金毘羅大権現」と唱え始める。「髪逆立ち、眼血走る有り様に」という凄まじさ。
ついにお辻は守り刀で我とわが胸を突き、坊太郎に詰め寄る。「サアサア物を言はしやれぬか」と迫り、その一方で「南無金毘羅大権現」を繰り返す。その凄まじさたるや、鬼気迫る形相としか言いようがない。ここは人形の清十郎さんと呂太夫さん、清介さんの三者の大熱演がピークに達する、まさにクライマックスともいうべきところで、あまりの迫力にこちらも思わず息を呑む。「南無金毘羅大権現」のクレシェンドが高まる。呼応して観客も引き込まれ、拍手が起こる。
そう、なのに、ここに叔父の内記が現れ、真実を告げると、一気に力が抜けるのだ。それこそお辻にとっては絶望の極みだろう。自分の祈りや犠牲が、何の意味もなかったことになってしまう。それが分かって見ている者は、なんでそこまで無駄なことをするのか、としらけてしまうだろう。これがこの芝居が感情移入しにくい点だと思う。だが、絶望のさなかで、お辻は坊太郎の成長を見、金毘羅大権現の降臨を見る。それが彼女の救いである。
でも、それは真実だろうか。あるいは断末魔の彼女の妄想ではないのか。本当に権現がいるなら、彼女の命をとどめたのではないか、と思わせるほどの、ある意味お辻の一方的な、報いのない死である。坊太郎の成長も、彼女の祈りの結果かどうか客観的には証明できないものだ。だからある意味、彼女の祈りは「ある」と信じるところにその成果を見出す。
「存在しない神に祈る」という言葉がある。神の実在を見出すことができなくても、存在するかのように祈る時、人は力を得る。お辻の祈りは、それに近い。彼女の一念は、ほとんど狂気にさえ思えるほど一途で、しかも祈りが叶わないことは自分の至らなさと感じ、さらにエスカレートする。まるでその集中そのものが現実を動かすかのように。
考えてみれば、文楽はほとんど、人間の問題は人間による解決で終わる。それがまた概ね悲劇に終わる。直接神仏が出てきて解決してくれるような都合のいい物語では、文楽はこれほど現代まで共感を呼ばなかっただろう。この芝居も、お辻の一念がこの物語を支え、意味のあるものにする。不合理そのものの拵え事なのに、命を懸けて坊太郎を救おうとしたお辻の「念」があまりに凄まじく、不可能を可能にしたようにさえ思える。他の不自然な設定もどうでもよくなる。最期のお辻は美しく、気高く見える。自分だけが犠牲になることを恨まず、ただ主君だけを思う姿は献身的であり、むしろ彼女は民谷家の「守り神」のようになったのではないかと思えるカタルシス。不思議だと思う。だけど、この上なく美しく、また陶酔させる。
打ち出しの『紅葉狩』もまた、能を基にした作品だが、文楽では前半の更科姫の美しさと後半の鬼女の変化。これもまた、太夫と三味線の圧倒的な迫力で不思議な陶酔感を生み出す。こちらは刀の威徳だが、もともと人間対鬼の闘いだから不自然に感じない。それより、「志渡寺」でもやもやしていた思いをすっきりさせてくれる明快さが心地よい。
やはり文楽はわからない、納得できないことだらけ。でも不思議とすっきりする、あるいは気持ちが高揚する。お辻の祈りに当てられたように、私たちもまた、自分の中の不条理な思いの中で、何かの救いを求めているのではないだろうか。それを具現化したようなあの一念のみが私たちを救うなら、それもまた望むべくもない。だから私たちは舞台を見る。そこだけにある解決を見て、慰められるために。
■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。
(2022年7月16日第三部『花上野誉碑』『紅葉狩』、30日第二部『心中天網島』観劇)
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