という今回のタイトルはあきらかに言いすぎなのですが。
そう言いたくなるほど、文楽の演目には「別れ」があふれている。
老親との死別、主従の別れ、心変わりで去り行く恋人との別れや愛し合う二人が引き裂かれる本意ではない別れ、はてはこの世との別れ…すなわち心中などなど。
ありとあらゆるパターンの別れが文楽の中にある。
中でも見ていて一番つらいのが、子どもにふりかかる別れだ。
いまも昔も子どもは、一人で生きていくことが難しい。というかほぼ不可能だ。
親が転勤するとなったとき、「引っ越したくないから一人でここに住む!」と言える小学生は、まずいない。
ある程度の年になるまでは衣食住、すべて大人に頼らざるを得ない。あらゆることが大人の事情にふりまわされてしまう。
自分の望みとはうらはらに、大人に従わざるを得ずしょんぼりガマンしている子どもを見ると、胸の奥がギュッと苦しくなってしまうのだ。
今回の4月公演では、一部と三部でそんな子どもの別れが描かれている。
正直なところ、演目が発表されたときに
「あれっ。テーマがめっちゃかぶってるやん」
と思ったのは事実だ(スミマセン)。
文楽に「別れ」はつきものなのだから仕方ないか。
第一部は『恋女房染分手綱』の「重の井子別れの段」、そして第三部は『傾城阿波の鳴門』。
同じ親子の別れであっても、「重の井子別れ」のほうは圧倒的に子どもの側、『傾城阿波の鳴門』は母親側に共感しながら見ていた。
「重の井子別れ」の三吉がかわいそうなのは、自分の母親なのにそうと名乗ってくれないばかりか、本当なら独占できるはずの母の愛情が同じ年代のお姫様に注がれていることである。
学校の先生や看護師を母親に持つ子どもが、受け持ちの生徒や患者さんにうっすらやきもちを焼くような、三吉もそんな気持ちになりはしなかっただろうか。
同じく文楽の『伽羅先代萩』の乳母・政岡も若君に愛情を注いでいるけれど、違っているのは、政岡と息子・千松は一丸となって若君を守る「同じチームの人間」なのに対し、三吉は「あんたは他人!」と切り離されていること。
これは悲しい。めちゃくちゃ悲しい。
自分が三吉なら馬子唄など唄わずどこかへばっくれることだろう。
『傾城阿波の鳴門』のおつるは、目の前にいるお弓が探し求めた母親だとは知らない。「もしかしたら…」と思っていたかもしれないけれど、確証はない。
お弓はこの子が娘だとわかっているのに、「お尋ね者の子となったら難儀が及ぶ」と拒絶する。なんという大人の事情!
おつるのまっすぐな悲しみも胸を打つけれど、お弓の「言いたい、けど言えない」とツイストのかかった悲しみに「わかる、わかるよ」となるのは、わたしもいろんな事情を経てきた大人だから、だろうか。
と、二つの「別れ」で原稿をまとめようと思っていたそのとき。
衝撃の別れが飛び込んできた。
吉田簑助師匠の引退発表だ。
ファンというのはワガママなもので「ずっと、いつまでも舞台に」と思ってしまう。
けれど、ご本人のコメントで
「人形遣いとして持てる力のすべてを出し尽くしました」
と言われてしまうと、もう平伏するしかない。
個人的なことになりますが、生まれて初めて見た文楽が、先代玉男・簑助ご両人、名コンビの『曾根崎心中』だった。
まだ高校生で、文楽のこともこのお二人がどれだけすごい人かということも、なにも分っていなかったにもかかわらず
「なんか…すごいものを見てしまった…」
と衝撃を受けたのを覚えている。
それから幾星霜。
簑助師匠はずっと、わたしの中の別格のスターだった。
そんな師匠の引退公演、第二部『国性爺合戦』「楼門の段」。
錦祥女が登場したとたん、バッと激しい拍手が起こった。
最後のお役、しっかりと目に焼きつけねば…と臨んだものの、見ている間ずっと、これまでの舞台や艶やかなお役が走馬灯のように頭に浮かび、胸がいっぱいになってしまい、気がつくと名残を惜しむような拍手とともに錦祥女は舞台を去ってしまった。
こんなときにボンヤリするなんて、自分のバカバカ!
と思っていたら4月公演は配信があるとのこと。
簑助師匠とのお別れをもう一度、家でじっくりかみしめたいと思っている。
(2021年4月8日第三部『傾城阿波の鳴門』『小鍛冶』、
13日第一部『花競四季寿』『恋女房染分手綱』、21日第二部『国性爺合戦』観劇)
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