指折り数えたら10ヶ月だった。コロナのせいで文楽が観劇できなかった期間である。
長かった……
自粛の間、技芸員並びに関係者の皆様は、並々ならぬ苦労があっただろう。まだまだ油断はできないが、とにもかくにも再開おめでとうございます!
久しぶりの劇場は昔のままだったが、ソーシャルディスタンスのため席が空けてあった。歯抜けの客席は切なかったが、空けた席に着物柄の色紙が貼ってあるのが、優しい心遣いである。
観客の表情は皆明るく、着飾って、華やいだ顔をしていた。自粛期間の辛い時期は、文化や娯楽というものがいかに大事かを、むしろ教えてくれたように思う。
(ブランクがあるからさすがに最初は暖機運転だろうな)
実はそう思っていたが、あにはからんや、緞帳が上がると、太夫も、三味線も、人形もフルスロットルだった。
パンフレットに掲載された吉田玉男師匠のインタビューによると、「七月中旬から十日ほど劇場と人形をお借りして、有志の人形遣いと一緒にトレーニングをしたんですよ」ということらしい。いや御見それしました。
とくに桐竹勘十郎師匠がすごかった。白髪頭の師匠が、狐を持って縦横無尽に舞台を駆け回るのを見て、「あぁ文楽が帰ってきた」と嬉しくなったものだ。
その勘十郎師匠が遣う八重垣姫だが、彼女の台詞、
「アヽ翅が欲しい、羽が欲しい、飛んで行きたい」
に昨年取材で行った山梨は郡内の景色を思い出した。
『本朝廿四孝』の主人公で、八重垣姫に飛んで会いたいと言ってもらった、武田勝頼は天正十(1582)年、織田信長による甲州征伐を受ける。勝頼は文武に優れた勇将だが、長篠以来の衰勢は如何ともしがたかった。天下統一を目前とした織田家の破竹の進撃に、かつて最強を誇った武田帝国は、瞬く間に瓦解する。
宿将の小山田信茂の進言に従い、勝頼は新築の新府城を捨て、岩殿城に落ち伸びることに決める。
甲斐は東側の国中と、西側の郡内という二つの地域から成り立つ。
そして、新府城が国中の西北になるのに対し、岩殿城は郡内のど真ん中である。つまり、勝頼は国中を東西に横切り、さらに国中・郡内間の険しい山道を通って、岩殿城に向かわなくてはならなかった。
総距離は50キロを超し、車を使ってもなかなかきつい旅だ。
勝頼の場合、妻子を含めた足弱を連れている上、敗軍である。意気のあがらぬ辛い旅だったに違いない。
しかし、過酷な旅路の果てに、勝頼達一行が見たのは、冷ややかに閉ざされた関門だった。
岩殿城への亡命を勧めた、当の信茂が裏切ったのだ。
小山田氏は代々郡内の王者ともいうべき家柄で、信茂には小山田家と武田家は本来対等という意識があったのかもしれない。だが、裏切りのタイミングがあまりに悪すぎた。この背信は、勝頼だけでなく、信茂も破滅に導くことになる。
それはともかく、国中から郡内へと向かう道は、両側から山が迫り、天がいかにも狭かった。
こんなところで、信頼していた家臣からの謀叛にあった勝頼の心情を思い、暗たんたる気持ちになったものだ。彼の史実での妻、北条夫人はまだ十九歳の若さでもあった。
「アヽ翅が欲しい、羽が欲しい、飛んで行きたい」
勝頼もそう思ったに違いない。
さて、文楽に話を戻すと、「十種香の段」と「奥庭狐火の段」の八重垣姫はあまりに魅力的で、この時の勝頼のもとに飛んで行ってほしいと、そう思わせるものがあった。
八重垣姫は、深窓の姫君のはずなのに、とにかく大胆で、恋に対しては猪突猛進。
死んだ許嫁勝頼の絵姿にお経をささげていたかと思えば、その勝頼にそっくりな花作りの簑作(その実、正体は勝頼)があらわれると、恋敵のはずの濡衣に仲を取り持ってほしいと頼み込む。
「……どうぞ今から自らを可愛がつてたもるやうに、押し付けながら仲立ちを頼むは濡衣様々」
その様子は恋に夢中の女の子の愛らしさと危うさに満ちている。
特に勘十郎師匠が、姫をはっと見返らせて見栄を切ったシーンは、本当に血が宿っているかのように艶やかで、思わず胸がときめいたものだ。
対する、濡衣は留袖もつきづきしい大人の女。勝頼への恋心、八重垣姫への嫉妬の思いを秘めながら、万事に気を配り、時に八重垣姫をいさめたりも出来る。アクセルの八重垣姫に対し、ブレーキの濡衣といったところか。この二人が、舞台の上でも、対称的に配置されているのが、「十種香の段」の面白いところだ。
一方、勝頼は女二人に挟まれて、何をするわけでもなく、ただおろおろおろおろしている。天下に名のとどろいた猛将のはずが、これでは、文楽によく出てくる金も力もなかりけりの色男である。おかしみとともに、彼の本当の人生もこんなだったらなぁと、つい思う。
二人の女性の対比によって、美しい均衡と緊張を保っていた舞台だが、結局、濡衣の成熟は、八重垣姫の若さに勝てない。逆上して自決しようとする八重垣姫の熱意にほだされ、濡衣は簑作の正体が勝頼であることを明かしてしまう。
勝頼も覚悟を決め、ついに二人の若い恋人は抱きしめ合う。
が、そこに、姫の父親、長尾謙信があらわれ、簑作に塩尻へ使いに行くよう命じる。だが、それは、簑作の正体が勝頼であることを見抜き、道中亡き者にしてしまおうというたくらみだった。謙信は、濡衣も「武田方の廻し者、憎き女」と詮議のため、引っ立てていく。
ここから先、「奥庭狐火の段」は、八重垣姫の独断場である。
思い人の勝頼をすくいたいという一心で、ついに諏訪法性の兜を媒介に狐憑きとなってしまう。衣装も赤色から白色に変わり、いわば狂気の世界に入るわけだが、その姿にはやはり少々の滑稽味とともに愛らしさを感じる。いわば「萌え」があるような気がするのだ。
妖(あやかし)に憑かれたり、神懸かりになったり、あるいは最近人気の 「鬼滅の刃」の禰豆子のように鬼の血を浴びたりして、異形の霊力を身に着け、人知を超えた力を発揮するヒロイン、私が勝手に「憑きもの系ヒロイン」と呼んでいるキャラクタ達の原型は、案外八重垣姫にあるのではないだろうか。
「……たとへ狐は渡らずとも夫を思ふ念力に神の力の加はる兜、勝頼様に返せとある諏訪明神の御教へ。ハアヽハヽヽヽ忝やありがたや」
狐たちを従えて、そう見栄を切る八重垣姫に向けて、会場の拍手は鳴りやまなかった。
それは、公演の再開、そして師匠たちの変わらぬ、いやよりパワーアップした熱演を寿ぐものでもあっただろう。
私も両手が痛くなるほど手を打ち鳴らした。
そして、八重垣姫があの郡内の狭い空を割って、勝頼のもとにふわりと舞い降りる、そんな光景を思い浮かべながら、
「やっぱり文楽っていいなぁ」
そう思ったのだった。
■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。
(2020年11月14日第三部『本朝廿四孝』観劇)
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