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国立文楽劇場

寝たらどうしよう問題

黒澤はゆま

「文楽行ってみたいけど寝たらどうしよう?」

私が文楽愛好家だと人に言うと、そう聞かれることが結構ある。

この心配はよく分かる。

実は私は大変な居眠り屋で、学生のときは、机に突っ伏して、教科書によだれの染みをよくこさえていた。

アメリカに旅行に行った際は、現地の友人に折角「オペラ座の怪人」を見に連れていってもらったのに開演直後に失神。途中、シャンデリアが落ちたシーンでびっくりして起きただけで、気づいたら怪人は死んでいたので、「怪人はシャンデリアに頭ぶつけて死んだ」と無理くりに解釈するほかない、散々な観劇体験になってしまった。

「君の方がよっぽどオペラ座の怪人らしかったな」

と、連れて来てもらった友人から苦々しく言われたことが忘れられない。

オペラもそうだが文楽のチケット代は結構する。何より魂を尽くして芸を披露する師匠たちに失礼だ。

私が「オペラ座の怪人」でやらかしたような失敗を繰り返してしまわないかと恐れる人たちの気持ちはもっともだと思う。

だが、これは、私個人の見解で、技芸員の方々、また劇場の裏方を支えるスタッフの皆様に失礼なことは、重々承知の上で、あえて言わせてもらえば「寝てよい」と思う。いや寝てしまうときがあるのも仕方ないと言うべきか。

江戸時代の劇場の風景を描いた絵を見ると、観客たちは実に思い思いのことをしている。

謡いのつばが届くくらい舞台のすぐそばでかじりついている人もいれば、桟敷で女郎たちをはべらせ劇そっちのけで戯れている人もいる。まだがえんぜない子供を連れて来ている女性もいるし、なかには乳を含ませている者すらいる。舞台とは全然違う方向を見ている人もいるし、首をかしげうたたねしているように見える人物もいる。

これは考えれば当たり前のことで、近代社会を体験する前の日本人は、実は長時間じっとしていることが不得手の民族だったのだ。明治時代に、工場設立の支援にやって来た欧米人が、日本人が飽きっぽく、作業に集中して取り組むことが出来ないことを嘆いたというエピソードが残っている。

とはいえ、劇の間、ずっと観客たちが注意散漫だったかというとそれも違い、観客のほとんどが目を見張り、息をつめて舞台の方を見ている絵も残っている。

要は観劇の姿勢にも緩急があったということなのだろう。恐らく、演者側も観客の集中力が続かないことを初めから心得ていて「ここは緩めて、ここで締める」という演出を心がけていたのだと思う。

文楽の筋運びはそんなおおらかな時代を前提にしているので、現代の感覚からすると時に悠長に感じられ、ついつい眠くなってしまうシーンも含まれている。

正直に白状すると自分も観劇中うたた寝してしまったことはあるし、私なんかよりずっと文楽に詳しく、批評眼にも恵まれた人が「いや眠くなることはそりゃあるよ」とこっそり打ち明けてくれたこともある。

だが、物語の切所、例えば心中や復讐のシーンみたいな「締める」筋に来ると、必ず目が冴える。心臓がばくばく鳴り、目は舞台に釘付けになる。文楽はちゃんとそんな風に出来ていて、大事なところは絶対に見逃せないようになっているのだ。

私は、それは物語がクライマックスに近づくにつれ、掛け合いになったり、三味線の音色が緊迫したものになったり、要は「音」がゴージャスになっていくせいだと思っていた。

だが、今回観劇させてもらった「仮名手本忠臣蔵」で、その見立てはまだまだ浅いということがよく分かった。

「仮名手本忠臣蔵」では、塩谷判官が切腹するシーンが近づくにつれ、音の面ではむしろどんどん淡泊になっていく。三味線はちんちんとわずかに鳴るだけ、太夫の台詞も減り、塩谷判官が九寸五分の短刀に懐紙を巻く音が響き渡るほど、劇場は静まり返っていく。

音が後景に退り、薄れていくに連れ、人形の表情は逆に鮮明になっていく。切腹の座を丁寧に整える家来、土壇場で家老の大星由良助を探して心惜しそうに首を伸ばす塩谷判官。

彼らの所作一つ一つがまるで生きているもののようにして網膜に焼き付けられる。

観客席の空気が張り詰め、皆、目を見張り、息をのんで舞台の上を見つめる。

そして、そのことが起こる。

ようやくあらわれる大星由良助。断末魔の主君に駆け寄り、末期の言葉に耳を傾ける。

「由良助。この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」

喉笛を掻き切り息絶える塩谷判官。主君の血に濡れた九寸五分を押しいただく由良助。

いつの間にか盆から太夫も三味線も消えている。静かなあまりに重い静けさのなか、アウトロは続く。

塩谷判官の切腹の座をまるで巡礼か盆踊りのように一巡りしたあと、舞台から一人一人消えていく家来たち。幕府に明け渡された館を背にする由良助。手にする提灯から家紋の部分を切り取った後、口をつぐんだまま観客席に向かって歩む。

すべてはのどがカラカラになりそうな緊張感のなか行なわれる。

そして、ふと足を止めた由見助、九寸五分を手に見栄を切る。

響く太夫の掛け声。

『はった』と睨んで。

完璧な舞台展開だと思った。そして、文楽のクライマックスに向けての演出が音をゴージャスにしていくいわゆる「足し算」の方法だけだと勝手に思い込んでいた自分の浅はかさが恥ずかしくなった。音を順に絞っていく「引き算」の方法で、人形の表情・所作を前面に出し、劇場の緊張感を高めていく、そんな技も文楽にはあったのだ。

文楽はこうした驚きを何度も与えてくれるエンターテイメントだ。

だから、最初の話に戻れば「寝ちゃうかも」みたいなことで、劇場に行くのを遠慮してしまうのはもったいなさすぎると思う。

文楽に少しでも興味がある人はまず劇場に足を運んでほしい。眠くなることがあっても心配いらない。それは一時のことで、クライマックスでは、めくるめく興奮があなたを待っている。

それに……これは大きな声では言えないが、生で聞く太夫や三味線の音は本当に心地よい。特に上手い太夫の語りは、なんだか大きな音圧に体中包まれているみたいに感じる。そんな、音の抱擁を受けながら、ふっとうたた寝してしまうのも、それはそれで至高の体験だったりするのですよ。

■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。

(2019年4月13日第一部『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』(大序より四段目まで)観劇)