文楽を何回か見てくると、気づくことが色々ある。繰り返すこと、変わらないことの楽しみがある。そして繰り返しの中に、思わぬ“ずらし”が笑いを誘う。だから大阪の初春公演は、変わらないことの中にどんな思いがけないことに出会うか、毎年わくわくする。
『七福神宝の入舩』は正月公演にしか出されない芝居。だから、何年か見ていると、再度あるいは数度同じ演目を見るということになる。一度見たからとスルーしてはいけない。この「七福神」は比較的新しい演目で、しかも国立文楽劇場開場以後の復活狂言。だから、演出にも毎回工夫があり、今度はどんなふうに楽しませてくれるか、期待が高まる。
まず、宝船がせり上がってくるのは私も初めて。大がかりな演出であっと思わせて、七福神を遣う人形遣いの方々が、実に楽しそうに遣う。そしてずらっと並んだ床の面々、7人の神のかくし芸ということで、琴、胡弓、駒を変えた三味線で琵琶の響き、そして友之助の曲弾き、これもさらっと演じられるので、気づかない人は気づかないかもしれない。そこが文楽の文楽たるところ、涼しい顔で凄い技を見せてくれる。人形も型はあるのだろうが、時々それを外して笑いを取る。定番は福禄寿の頭だが、今回は特に、鯛を釣り上げる恵比寿に大黒天が〇〇ビールを出して勧めるところ、そして幕切れに寿老人が杖を掲げると、そこに「祝錣太夫襲名」の垂れ幕が。これも大阪ならではの楽しさというべきではないだろうか。次回は誰が、どんな芸を見せてくれるだろうかと期待してしまう。
そして竹本津駒太夫改め六代目竹本錣太夫の襲名披露狂言『傾城反魂香』「土佐将監閑居の段」。襲名の錣太夫の緊張した面持ち、床上での口上は六代呂太夫が語る。新錣太夫の若い日のエピソードが微笑ましく、いかにも生真面目な人柄を思わせ、観客席もほっと明るい気持ちになる。文楽の襲名は、本人は語らず、周囲がこうして引き立て、お客に応援を願う。文楽ファミリーの温かさ、共に修行してきた者たちだけの連帯感、そして共によりよい舞台を作っていこうとする、芸の厳しさを知る者だけの意志が感じられる。
舞台も素晴らしかった。新錣太夫の語りは、又平の一途さ、必死さとそれが伝わらないもどかしさの内に、彼の深い絶望と、一転してそこから救われた喜びがまっすぐに伝わってくる好演であった。差別された者が必死で戦い、それを妻が支えようとする。貧しさと困難の中に希望を見出そうとする二人の強さと誇り、そうしたものを感じさせる真実味、これこそが太夫の語りの力であろう。勘十郎の又平の、朴訥な誠実さと絵師としての誇り、にも拘らず障がいのために嘲られる者の悲哀と苦しみ。それを支える女房おとくは清十郎。夫を思う一途さと、夫に代わってしゃべる積極性と、やはりただの町人ではないと思わせる物腰の上品さが相まって、もう一つの主題である、助け合って生きる夫婦愛の絆の確かさを感じさせる。
ちなみに、女のおしゃべりと言えば、このおとくと、『弁慶上使』のおわさが代表的だが、これも文楽では男が中心、だから物語るのも男、を反転させているところに面白さがある。おとくも男勝りの強さを見せるが、ここでは又平のかしらはどちらかといえば三枚目のおかしみがまさる。動きの中にもそれを強調するところがある。その動きのユーモラスな仕草に、観客の笑いが漏れる。だから、中心の軽さがおとくの強さをより際立たせるようだ。巧妙な男女の役割のずらしが、笑いとペーソスを生みだす。
ここは実際シリアスな場面である。又平は本当に、命がけで土佐の名字をもらおうと、必死なのだ。それを伝えられない苦しみ。でも、見る者にはそれが、面白うてやがて悲し、なのだ。追い詰められた又平が、死を覚悟して自分の画像を手水鉢に残している。それが石を貫くという絵筆の奇跡。考えてみればあり得ないような奇跡の物語だが、それが不思議とその軽さと結びつく。正月公演の良さの一つは、ハッピーエンドの演目が多いこと。実は文楽ではハッピーエンド自体が少ないのだが。
それは『曲輪ぶんしょう』「吉田屋の段」でも言える。新町の廓の年越しの風情、餅つきや太神楽といった失われつつある大阪の街並みと人々の年中行事。だが、そこここに笑いの仕掛け。とりわけ店先で仲居同志が客の噂をしながら「京の六畳数珠屋町」と、『新口村』の一節を入れてくる。伊左衛門と夕霧の色模様は、「万歳」の一節に掛けている。そのリズムが、掛け合いの調子が、何ともはんなりとして心地よい。あらすじがどうとかいうより、この風情に浸っていたくなる。
第二部の『加賀見山旧錦絵』は、昨年を通して上演された『忠臣蔵』の世界をちょうど女性たちの奥の世界に移したもの。場面は鶴岡八幡宮、『忠臣蔵』なら大序に当たる。幕が開いた時の両側に対照的に広がる2つの勢力の対比や、敵役の高師直を、同じく憎さげな局岩藤に、いじめられる塩谷判官を中老尾上に転じ、一方的ないいがかりでのいじめを見せる。これを見た人は、『忠臣蔵』の「殿中刃傷の段」の緊迫をこの場面と重ねて思い起こすようにとの仕掛けである。師直ならば判官を「鮒侍」と侮辱するところだが、岩藤は「町人は」と尾上を草履で打ち付ける。どちらも見る者をはらはらさせ、いじめられる方に味方させてしまう。『忠臣蔵』では大星由良助が事の次第を知る場面はないが、ここでは召使お初が、殿中の秘密や主君尾上の苦境を知り、何とか助けたいとあれこれ奮闘する。女同士、主従でありながら、もっと深い魂の結びつきを感じさせるのは判官と由良助に近いけれど、この場合はお初が尾上を必死で支えようとする、自ら動いて主君を支えようとする姿に、いつしか見る側が同化していく。そしてお初の魅力は、後半、尾上の死を知って、仇討のための狂乱から、女同士の戦いを見せるところである。
『忠臣蔵』はどちらかと言えば葛藤の場面のみを見せ、実際の仇討は見せない。そこが不満な人には、ここは留飲の下がる思いだろう。いわば、男の世界で見せなかったものを女同士の世界に置き換えることでより単純化し、見所を作るという作劇法である。でも私がいつも見ていてほっとするのは、お初が尾上の気を紛らわせようと、芝居の話を振るところであえる。ここは何か、主従というよりも姉妹のような親しさを感じさせ、それでいて『忠臣蔵』を引いて主君を諫める心理劇だけれど、微妙に『忠臣蔵』との世界の重なりを劇中に示唆しているところが興味深い。
『明烏六花曙』は平成八年の初春公演以来だから、実に四半世紀ぶりという珍しい狂言。それも文楽では珍しい新内からの作品である。色っぽい作品かと思ったら、次々と趣向は変わる、しかもどこかで見たような場面が続く。設定からして、せかれた遊女と主人の重宝を求める男とその健気な娘、だから、『心中天網島』の小春・治兵衛か、『堀川猿回し』のおしゅん・伝兵衛か、しかも雪の中で折檻される娘となると、『中将姫』と『袖萩祭文』を思い出させるし、鉄弓となると『夏祭浪花鑑』を連想させるし、いやはやちょっと食傷気味、と思っていると、髪結のおたつがちょっと粋な人情の機微の行き届いた造形で、ほっとする。
どうなるのかと見守っていたら、最後に出てくる手代彦六。この人物は文楽の独自の趣向というが、自分では粋でもてる男を自認しているが、結局的外れの思い込みで、主人公を助ける「デウス・エクス・マキーナ」の働きをしてしまう、という結末。これも確かどこかで見たような、と思いつつ、笑わずにはいられない。幕切れは娘をおぶった時次郎、これまた『桂川連理柵』の段切れを思い起こさせる。周到な、というより、あちこち、文楽のエッセンスをうまく寄せ集めたような感じで、どこが面白いというより、こういう物語を成立させてしまうところが文楽の面白さの一つなのだと思う。新劇と違って、主題とか、物語の首尾一貫性とかよりも、その場その場を楽しめるところが。それでもしっかりと情とか哀れさとか愚かさを伝えてくるところが。
文楽は一度見ただけではわからないと言われる。でも、わからないからではなく、色々な楽しみの仕掛けがありすぎるから、一度だけではもったいない。その仕掛けに気づくようになったら、また一段と離れられなくなる。だから、一度見たからと敬遠しないで、経験の重なりが巧みな“ずらし”を見つけられる、そんな楽しみの機会を持ってもらえたら、と思う。いつも何度でも、見ることの喜びは見るたびに広がるものだから。
■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。
(2020年1月11日第一部『七福神宝の入舩』『傾城反魂香』『曲輪ぶんしょう』、
12日第二部『加賀見山旧錦絵』『明烏六華曙』観劇)
Copyright (C) Japan Arts Council, All rights reserved.