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文楽かんげき日誌

“おいど”と“足”—初春文楽公演より

金水 敏

・若き日の錣太夫さん

 今回第一部では、竹本津駒太夫さんが竹本錣太夫(しころだゆう)さんを襲名され、その襲名披露の演目として、『傾城反魂香』を語られた。大変な熱演で感動するとともに、さまざまに思うところがあったが、盆廻しの上で襲名口上を豊竹呂太夫さんが勤められ、こんなエピソードを披露されたことがとても印象的であった。
 錣太夫さんの修行時代、大変厳しい六代目鶴澤寛治師匠に三味線のお稽古を付けていただいていた時、お師匠さんが突然、
「おいど(=お尻の大阪弁)をめくりなはれ」
とおっしゃった。若き日の錣太夫さんは緊張のあまり、師匠の言葉の意味がよく理解できず、立ち上がってもぞもぞと着ていた浴衣の裾をめくろうとした。相席していた女流義太夫の三味線弾きの鶴澤寛八さんが慌てて止めにかかり、
「そのおいどとちゃう。床本のおいど(最後のページ)のことや」
と教えられた。
 呂太夫さんはこれを、いかに錣太夫さんが生真面目なお人柄であるかと言うことを伝える、昭和の文楽の歴史に燦然と輝くエピソードであると伝えられ、会場は爆笑と拍手で大いに沸いたことであった。着実に芸の継承が行われていく現場に立ち会えることは、一介の観客としても喜ばしい気持ちにさせられる。

・お初の「足」

 第二部に上演された『加賀見山旧錦絵』は「女忠臣蔵」と呼ばれている。この演目と『仮名手本忠臣蔵』の役柄は、次のように対比されるという。

岩藤……高師直
 尾上……塩谷判官
 お初……大星由良助

 役柄がこのようになぞらえられるだけでなく、劇中でも、岩藤から草履で頭を打ち据えられ、辱めを受けた尾上にお初が、自害の軽挙に走らぬよう、忠臣蔵のストーリーを引き合いに出して主の思いを確かめるシーンがあるのである。文楽作品が他の文楽作品を引用する例をあまり知らないので、このシーンは大変興味深かった。しかも、私たちは2019年に3回の公演に分けて『仮名手本忠臣蔵』をたっぷり鑑賞してきたばかりで、タイミングは絶妙だ。
 公演プログラムを拝見すると、敵役の岩藤は女ながら、ふだん立役を遣う人形遣いさんが担当されるとのことで、今回は吉田玉男さんが当たられた。さすがに貫禄たっぷりで憎々しさも十分すぎるほどである。つまり、岩藤には人形遣いの特性の面から、男性性が与えられることで、敵討ちへの必然が観客にすんなり飲み込めるように考えられている。
 さらに、見ていて「あっ」と思うことがあった。敵討ちをするお初に「足」があるのである。
 文楽ファンの方々はよくご存じのように、男の人形には足があるが、女の人形にはふつう、足がない。女の人形の場合、足役の人形遣いは、着物の裾をつまんで足があるように遣っているのだ。ところが、お初はれっきとした女であるのに、足が付いている。このことに気づいたのは、長局(ながつぼね)の段、お初が尾上に、母上に急な文を届けるよう言いつけられたシーンである。お初としては、留守をしている間に尾上にもしものことがと気がもめるので、今日はもう遅いからと抵抗するのであるが、尾上にきつく言い渡されて渋々出かける支度を始める。

「今日に限つてこのお使ひ、行きともなうて行きともなうて、尾上様のお身の上が案じられて、どうもならぬ。(中略)オヽかういう時の仏神様、さうぢやさうぢや」
と塵手水(ちりちゃうず)、一心無我の手を合はせ
「南無観音様観音様、南無鬼子母神様鬼子母神様、お宿へ参つて帰りますうち、主人の身の上頼み上げます。どりや、ひと走り走つてかう」
と小褄(こづま)りゝしく高絡げ、錠口鎖して出でていく

というシーンで、履き物を履くために土間に足を降ろしたとき、白くかわいい足が見えたのだ。お初の胸騒ぎは現実のものとなり、尾上は自害し果てるが、そのあともお初はこの足で走り回り、仁王立ちし、獅子奮迅の立ち回りを演じるわけだ。いやあ、確かにお初には足がぜひとも必要だ、と納得した。「敵討ち」という、いかにも男性的な偉業を立派に果たしてみせるお初には、それなりの男性性がその人形に与えられていたのである。先の、岩藤を立役が遣うことも含めて、文楽の知恵というものはまことに奥が深い。
 不明にして、足の付いた女の役柄が他にもあるのか知らないのだが、ともかく珍しい、いいものを見せてもらったという気持ちになった。

■金水 敏(きんすい さとし)
大阪大学・文学部教授。1956年、大阪生まれ、兵庫県在住。専門は日本語史および「役割語」研究。著者に『日本語存在表現の歴史』(ひつじ書房、2004。新村出賞受賞)、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店、2003)、『〈役割語〉小辞典』他。

(2020年1月11日第一部『七福神宝の入舩』『傾城反魂香』『曲輪ぶんしょう』、
24日第二部『加賀見山旧錦絵』『明烏六華曙』観劇)