なぜか「忠臣蔵は勇んで見に行く」という気分になる。ずいぶん前に知人にそう言ったら「そりゃ、日本でいちばん有名なテロリストの頭目が活躍する芝居だからさ」と返されて当惑したことがある。テロリストの頭目はもちろん大石内蔵助、いや、大星由良助ということになるのだろうけど、そんなカタカナで呼ばれたら、さぞ御当人は驚くだろう。市中の大名屋敷に押し入り主の首を取るのだから、そう言えないこともない。そんなことを思い出しながら文楽劇場へ出かけたのが桜の花が舞い散る四月。七月にはおかる勘平の不運を、芝居ならではの華やかな雰囲気の中で楽しみ、十一月である。
めったに上演されないという十段目「天河屋の段」を見るのが待ち遠しかった。と言うのも「天河屋義平は男でござる」と言う有名な台詞が出てくるのは、たぶん十段目であろうと目星をつけていたからだ。
なぜ、この台詞を私が知っているのか?それがそもそも謎である。何時頃から知っていたか?それも定かではない。幼稚園に通っていた頃にはもう知っていたような気がする。五十年以上も前から「天河屋義平は男でござる」を知っているのに、天河屋義平は誰なのかはよく知らない。どんなことをした人なのかも知らない。「男でござる」と言うのだから、さぞかし侠気に満ちた人物であろうと類推はできる。けれども「それは誰?何をした人?」と聞いてはいけない感じがする台詞だった。大星由良助は日本で一番有名なテロリスト説を聞いたのがかれこれ四十年前で、大学へ通っていた頃だ。テロリストと革命家と英雄がどうかすると同一視されていた時代の雰囲気がその珍説に潜んでいる。1970年代の終わり頃のことだ。時代が80年代に入ると「天河屋義平は男でござる」という台詞が人の口から飛び出すのも珍しくなった。
記憶があるわけではないが酔っ払いの口から飛び出す台詞として「天河屋義平は男でござる」を聞いて覚えたのではないかと想像している。講談や浪曲に出てくる有名な台詞を酔った勢いで言ってみせるおじさんたちがけっこういたのだ。歌謡曲でも芝居から題材をとった曲がいくつもあった。断片として覚えた芝居の台詞を言い出す当人も、どんな登場人物なのかよく知らないということもあった。だから「誰?」と聞いてはいけなかったのだ。尋ねたとたんに、大人から理不尽な大目玉を喰らうことは必定。そんな感じが身体に残っているから、やはり幼児の頃に覚えた台詞に間違いはない。
「津の国と和泉河内を引き受けて、余所の国まで舟寄せる三国一の大湊」と十段目の幕が開く。天河屋義平は堺の廻船問屋と分かって、そのすらりとした姿勢が目に飛び込んでくる。和泉河内と言えば、気性の荒い人も多い土地柄をすんなりと収めている人柄がなんとなくこの冒頭で納得させられる。何と呼ぶ色なのだろう華やかな茶色に細い縞の長羽織を羽織っている。これがすこぶるかっこいい。武家のいかめしい衣裳とも、公家のたっぷりとした衣裳とも違う商人の身軽さと気風の良さが感じられる羽織だ。長羽織が西洋風のマントにようにも見えるのは堺という町の名からの連想かもしれない。かつては南蛮渡来の鉄砲を取り扱っていた町、現在に至っても香木を材料とする線香のメーカーが残る堺の町。刃物も名産である。そんなことを知ったのは、いつだったか仁徳天皇陵を徒歩で一周した時のことだった。堺の町の独特な雰囲気が、どっと頭の中によみがえる。
討ち入りを企てる大星由良助ら四十七士の、小手脛宛て小道具の類いから忍び提灯鎖鉢巻から鑓長刀、鎖帷子の継梯子まで天河屋義平が買い集めたものを船荷、陸荷に分けて送り出したと聞き、ああ、なるほど鉄砲を商ってきた堺の商人であればこそと納得してしまう。実際の赤穂浪士の討ち入りは元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)であったから関ケ原の戦いからおよそ100年余り、堺の湊に戦国時代の気風が残っていたかどうかは分からない。いや、三代ほどさかのぼれば戦国の世なのだから、まだまだ武器商人として戦国大名の商談を取り交わしてきた昔話は忘れられていなかったかもしれない。そんなことを思いながら、おもしろく浄瑠璃を聞く。赤穂浪士のそろいの衣裳、周到に準備された道具類を揃えた商人がいたなどとは想像したこともなかった。それが文楽の舞台でぐいぐいとリアルな話になっていく。
昔、珍説を唱えた友人風に言えば、テロリストを支援する天河屋義平は、戦国の世を生きた時代の武器商人の気風に憧れる人であろう。秘密を守るために用心深く、家の使用人に暇を出し、妻は病気養生を理由に里へ帰している。物語は里へ帰された妻のおそのの処遇を巡るやりとりで進む。舅は義平に去り状を書かせ娘を余所へ嫁がせようとする。義平は荷物を無事に送り届けるため去り状を書き、舅を戸外へたたき出した。その夜更け、天河屋へ大勢の捕り手が塩谷浪人への武具調達の疑いがあると詮議のために押し込んでくる。船荷として出した長持ちが証拠として運び込まれる。長羽織をさらりと脱ぎ捨てた天河屋義平が長持ちの上に座り、あの決め台詞となる。
「天河屋義平は男でござる」
証拠の長持ちの蓋を開けられたら、もう、言い逃れはできない絶体絶命の場面だ。決め台詞は想像していたよりもさらりと言ってのけられる。絶対絶命の場面でさえ、いや、それだからこそ平常心を保った様子を見せる芝居の中で演じられる芝居。観客としては手に汗を握るようにして見つめなければならない場面だろうけれども「へ、こんなお芝居だったんだ」と幼年期から謎がさらりと解けた瞬間だった。この場面はまた見たい。謎と呼んだらいいのか、それともほかに良い言葉があるのか分かりかねるけれども、よく耳にしてきた台詞が人形芝居の中に帰って行く感じは、きっと二度目に見る時も、三度目に見る時もなにか不思議な心の軽やかさを運んでくれる予感がする。それが古典の良いところだ。
長持ちの中から現れたのは大星由良助で、大星の采配で、余所へ嫁がされることになったおそのの身の上が助けられるというお話の筋は忠臣蔵の本筋からは外れる挿話なので、この十段目はなかなか上演されないとのこと。となると、ああ、これがあの天河屋義平だったかと感嘆するというあの気分もめったに味わえない貴重なものだ。
初日とあって、着物姿の人も多い。暮れや正月と違い霜月の着物は趣味で選んだと思わせる柄や生地の着物を見るのも楽しかった。会場の着物姿の人を見るにつけても天河屋義平の長羽織はすてきだったなと、思い出しちょっとうっとりした。
■中沢 けい(なかざわ けい)
作家。法政大学教授も務める。1959年生まれ。高校在学中に書いた「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞。1985年『水平線上にて』で野間文芸新人賞受賞。著書に『野ぶどうを摘む』『女ともだち』『豆畑の昼』『さくらささくれ』『楽隊のうさぎ』『うさぎとトランペット』など。千葉県出身。
(2019年11月2日第二部『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』(八段目より十一段目まで)観劇)
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