文楽劇場の客席は、補助席が出るほどの満杯だった。そしてもう一つ驚きは、客席のかなりのスペースが、壮年男性で埋まっていたこと。観劇文化がほとんど女性のものである日本で、これは驚異的なことではないか。
確かに、文楽は男中心のドラマである。それだけでなく、男性にとって、見て共感できる舞台である。特に「忠臣蔵」の世界は、単に義理人情、というだけでなく、主君の暴挙(?)で部下が路頭に迷う、いわば現代のサラリーマンにとっても他人事ではない世界である。そして神仏や精霊の助けもない、あくまで人対人の関係性のひずみと、それを解決するのも徹頭徹尾人間の知恵と努力として描かれる。人間的な、あまりに人間的な。恋愛ものや心中ものよりも、組織人の悲哀がぐっと胸に堪える作品ではないか。
とりわけ勘平の悲劇の六段目は、やってもやっても報いられない、なぜか思いと逆の結果になってしまう、「鶍の嘴ほど違う」悲劇。組織人として、こんな悲哀を感じたことのない人は少ないのではないか。
そして七段目、がらっと雰囲気が変り、祇園一力茶屋で遊蕩にふけるかつての国家老大星由良助を訪ねる数組の客との間で繰り広げられる、虚々実々の心理戦に目が離せない。
まず斧九太夫と鷺坂伴内。敵同士のはずがつるんでやってくる。実は九太夫は伴内の主君で敵の高師直と通じているのだ。そして由良助の肚を探ろうとする。
味方であるはずの三人侍の直情径行に対し、由良助は酒気分のまま、「仇討など無駄なこと、自分の損になるばかり」と仇討の意志のないことを示す。そこは忠義者の平右衛門(おかるの兄)が取りなすが、相変わらず由良助は本性を見せない。
しかし、そんなことに騙される九太夫ではない。由良助と差しつ差されつ、目に見えない肚の探り合いが続く。お互いがお互いを知り、ちょっとやそっとで騙される相手ではないことを知っての丁々発止、皮肉が飛び交い、相手をあてこする言葉の刃が切り結ぶ。九太夫が、主君の逮夜だというのに、蛸を押し付けて食べるかどうかを試す。平然と受け流し、蛸を一口に食べる由良助。さらに由良助の刀が赤く錆びて使い物にならないのを見てほくそ笑む、九太夫と伴内。
それでもまだまだ九太夫は油断しない。さすがに悪者の抜け目なさと言える。由良助の息子力弥が訪ねてきたことを見逃しはしない。その手紙の内容を確認すべく、帰ったと見せかけて床下に潜む。どっこい、由良助も相手が潜んでいることを予測して、まるで床下を見透かしているかのように、九太夫に向けて水をこぼしたり、手紙の包みに火をつけて投げたりする。偶然なのか、わかっているのか、その絶妙さに思わず笑いを誘う場面がある。
さて、忘れてならないのが、この七段目にしか登場しない、ナイスガイの平右衛門である。わずか5両3人扶持の足軽ながら、主君塩谷判官の敵討の連判に加わりたいと、わざわざ由良助を訪ねてくるのだが、軽くあしらわれ、「其許は足軽ではなうて、大きな口軽ぢやの」と言われる。だが、その実誰よりも由良助の本質を見抜き信頼している。きびきびした動きと「ネイネイ」などの奴詞の小気味よさ。「こんな部下が欲しい!」と思わせるイイ男である。この平右衛門、廓勤めをする妹を案じ、また重要な知らせを持ってくる。
そしてこの場の花のように香り立つおかる。六段目の女房風とがらりと趣の変わった、吉田簑助師匠(人間国宝)の至芸をぜひ見ていただきたい。二階座敷からちょっと首を傾げ、延べ鏡で階下の由良助の手紙を盗み読むあたり、人形とは思えない色っぽさである。由良助とのちょっとした色模様を演じるが、手紙を読んだことを知った由良助が、自分を身請けすると言い出すと、由良助に向かって「お前のは嘘から出た真ぢやない。真から出た皆嘘」と、とんでもない一言で由良助の本質を突くのである。この兄妹、なかなかではないか。
このあとのおかると平右衛門のからみがあり、平右衛門がおかるを切ろうとして結局真実を妹に語る愁嘆場があって、平右衛門がおかるに由良助の真情を語り聞かせるのだが、そこへ由良助が颯爽と現れ、おかるに勘平の意趣返しをさせる。九太夫の首根っこを摑まえて、これまでの恨みつらみを述べて本心を顕す。なるほど、と観客も安堵するのだが、どうも、この逆切れっぽい最後の言葉、どこかで見た覚えが…そうそう、鮒侍だと言われて、ついに切れた主君と同じではないか。というわけで、この主従は何と似ていることかと納得してしまった。類は友を呼ぶのか、家来だから主君に似たのか、いずれにせよ、塩谷判官と由良助は、単なる主従というより、似た者同士の友情?で繋がっていたのかもしれない。「忠臣蔵」は男の世界。その裏表、悲哀、意地、派閥争い、様々な意味で、現代の人間関係を彷彿させる、大人の男のための劇的世界である。
■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。
(2019年7月24日第二部『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』(五段目より七段目まで)観劇)
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