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国立文楽劇場

あらたまの年に

谷崎 由依

お正月の文楽劇場は、いつもよりいっそう華やかだ。門松に餅花しだれ、着物のひともさらに目立つ。黒門市場から届けられた、二匹の立派なにらみ鯛。真っ赤な鯛は舞台頂上にもおおきく飾られていて、演目のはじまる前から気持ちが浮きたってくるのだった。

第一部のいちばんめは『寿式三番叟』だ。とうとうたらりたらりらと、不思議なうたいの文句とともにあらわれる人形たち。翁の面をつけて踊るもの。黒と金の縞地に日の丸の烏帽子をかぶり、二人ひと組になって踊るもの。物語らしい物語はない。新年やこけら落としに演じられ、国土安穏、五穀豊穣を祈るとくべつな演目なのだという。能の「翁」がもとになっているが、この「翁」というのも、能のなかで独特の位置を占めているらしい。
千歳、翁、三番叟の、三つの舞いのそれぞれは、何を象徴するのだろう。考えるけれど、わからない。わからないなりに、見ていると腑に落ちるものがある。どん、どん、と踏みしめる音。あれはあたらしい年の、あたらしい舞台を踏みかためる音だろうか。

能はそもそも、野外で演じられたものだという。能の舞台背景に松が描かれているのはそのためだと。ひとあし、ふたあし、どん、どんと、大地を踏みしめ踊ったのだろうか。松の根方で、豊作を祈り、平穏を祈りながら、神がその地に降りるよう、願って舞ったのだろうか。ひとあし、ふたあし、ふる年、積む年。疲れて休みながらも、鈴を振る。その音を聞くうちに、遡るような気持ちになる。

わたしはいま、文楽を観ている。文楽そのもの歴史だってたいへんなものだけど、文楽の以前にさらに、長くて古い膨大な芸能の歴史があるのだ。土を耕し、生きてきたひとびとのいとなみとともに、ゆっくり、とてもゆっくりと、培われてきたものがあるのだと。千年以上ものあいだに、意味さえ辿りがたくなった言葉や仕草。けれどそのなかに、感じるものがある。聞き取ることの出来る残響がある。そうして、それはこの先も続いていくべきものなのだ。

平家の落人たちのその後を描いた『義経千本桜』。一条戻り橋の怪『増補大江山』は、たおやめが一瞬にして鬼に変化する、からくりの意匠を凝らした派手やかな演目だ。第二部は杵造とお臼の夫婦が踊る、これもお正月らしくおめでたい『団子売』ではじまり、『源平盛衰記』を書きあらためた『ひらかな盛衰記』が続く。そして最後に忘れられないのが、武田信玄の息子・勝頼と、その婚約者で上杉謙信の娘・八重垣姫の物語、『本朝廿四孝』である。

幕が開くと、舞台は三つに分割されている。中央は淡いパステル調、両側は障子で隠されている。左右対称のシンメトリカルな作りだ。天井は低めで、壁には花の紋様。謙信の屋敷であるこの舞台に、まず魅了された。色遣いといいかたちといい、夢に出てきた場所のような、どこともつかなさがあるのだ。中央の廊下に青年があらわれる。花作りに身をやつしているが、正体は武田勝頼である。青年の衣裳もまたパステル調だ。
右の障子に灯りがともる。障子は紗幕で、透けた向こうに八重垣姫が見える。くったりとした座り姿は人形ならでは、この世のものではないような風情がある。肩越しに振り返り、廊下を窺う。しゃらりと重たげな髪飾りを、そうっと傾けるようにして。 わたしはまた、こころを掴まれた。あどけなくも愛らしく、どこか動物的な無邪気と気品。人形遣いは吉田簑助だ。この段のあいだじゅう、強く思っていた。八重垣姫が見たい。簑助の動かす八重垣姫が見たい、と。

つぎの段の舞台は奥庭、琴の音色が響いている。勝頼に危険を知らせようとして、法性の兜のちからを姫は借りる。いっしんに祈っていると、しゅっ、と白いものがよぎる。水を覗き込めば、映る姿は狐だ。やがてあちこちから白狐があらわれ、姫の衣装も赤から白に変わる。狐の霊力が乗り移ったのだ。三味線が盛りあがり、姫と狐が生き生きと駆けまわる。その動きの切れのよいこと。見ていて、泣いた。嬉し涙だ。本能のままに恋をして、その相手を救おうと、祈って狐になった姫。フェミニティと野性。ビョークの歌を聴くときのような解放感。

戦国を、源平を、平安のころを想って、江戸時代のひとびとは、これらの劇を作り、熱中した。三百年以上の時を経て、その劇をわたしたちが観ている。時代が移れば感覚は変わり、当時の美意識をそのままに体験するのは難しい。でも何も知らなくても、わかるものはある。その感じを大事にしたい。そして研ぎすませてみたい。文楽を観るたび、ますますそう思う。

■谷崎 由依(たにざき ゆい)
作家、翻訳家。1978年生まれ。京都大学文学部美学美術史学科卒業。2007年『舞い落ちる村』で第104回文學界新人賞受賞。訳書に、キラン・デサイ『喪失の響き』、インドラ・シンハ『アニマルズ・ピープル』、ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』(ピュリッツァー賞・全米批評家協会賞受賞作)など。京都府在住。

(2013年1月6日『寿式三番叟』『義経千本桜』『増補大江山』、25日『団子売』『ひらかな盛衰記』『本朝廿四孝』観劇)