文楽かんげき日誌

死と人形

鈴木 創士

「お染久松」(『染模様妹背門松』近松半二作)のなかで夢のシーンがあります。生玉神社の境内でお染と久松が逢引しています。道ならぬ恋です。お嬢さんのお染は家のための政略結婚間近で、久松はその家に世話になった丁稚です。二人は八方塞がりです。いずれ死が二人の運命の終着であることは容易に察しがつくことです。死は二人を分かつのでしょうか。その境内へ名前は善六でもお染に横恋慕している悪玉善六が現れます。この悪玉はここでもお染に言い寄り、ちょっかいをかけようとするのです。怒った久松は善六を切り殺してしまいます。なすすべもなくなった二人はこの境内の井戸に次々に身を投げます。

「サア人を殺せばなほ以て、生きてはゐられぬお染様。さらば」
と言ひざま突つ込む刃
「一人はやらぬ諸共に」
と辺りの井戸へ真つ逆様。身はかげらふのありやなし。胡蝶の夢と覚め果てゝ、思ひは重き石の火の、光とぼしき油屋の我が住む家居となりにけり

ところが話としてはそれは実は夢だったということが明らかになるわけです。はたして人形たちも目を覚ましたのでしょうか。浄瑠璃のほうはこう続きます。

ふつと目覚まし
「ハア嬉しや夢であつたか。シタガあの売り声は生玉で見た歌祭文。とりも直さずこりや正夢、あれもやつぱり善六めが拵へて売らすのか、引つ捕らへて」
と立ち上がりしが
「イヤイヤイヤ止め立てしたら身に覚えがあるゆゑにと人の口、エヽ憎い奴と言ふもこつちの得手勝手、所詮死ねとの今の夢、人をも世をも恨むまい」

今回の上演では原作のように二人が自害して幕切れになるのではなく、昭和三十五年の野澤松之輔による補綴によるものだそうですが、お染と久松は出奔して終わります。だからといってこの上演がハッピーエンドであるとは私には思えません。先ほどの夢のシーンがあったのだし、それは動かしがたいからです。夢うつつは夢がうつつのなかに、またうつつが夢のなかに侵入した証なのです。

しかしこれは舞台なのですから、夢のシーンは映画のようにはいきません。映画であれば、昔から、つまりサイレント映画の黎明期以来、夢の情景はかなり滑らかにつくられています。素人考えかもしれませんが、映像なのですから、わりと簡単につくることができるのではないかと想像できます。映画では、夢と現実は感触として地続きではなく、どちらかがメタレヴェルにあって、要するに違う次元にあることが観客にもかなりわかるときがあります。しかし何から何まで物質的である舞台、文楽の人形芝居ではそうはいきません。夢と現実はまったく同一の物質的レヴェルにあるほかはないのです。ところが夢の情景は文楽でも夢の情景のままです。これはどういうことなのでしょうか。はじめから夢とうつつには截然たる差はなく、夢うつつがずっと舞台を取り囲んでいたのでしょうか。観客はたしかに夢うつつのなかにいます。観劇とはそういうものです。

そんなことをぼんやり考えながら見ていたのですが、いやはや、人形は観客にとってそもそも最初から夢の情景のなかにいたのではないかというあらぬ考えが頭をもたげました。人形は現実のなかにいたりするのでしょうか。夢を見ているのは誰なのでしょう。夢うつつはどこにあるのでしょう。人形なのか観客なのか。舞台というものははたして現実なのでしょうか。現実という言葉はあまりにもここでは無粋にすぎますが、他に言いようがないので、勘弁していただきたい。

浄瑠璃はよくできたものです。以前にここで述べたことですが、浄瑠璃はそのまま人形の代弁者ではなく、つまり人形の科白だけを語ってはいません。浄瑠璃は小説のように話のプロットや成り行き、解説を含めた「すべて」を語るのですし、それだけで独立したものです。あまりにも人形のインパクトが強いので、普通はそうは思わないでしょうが、その意味では人形は別の位相、浄瑠璃とは少しばかり異なる次元にいると言えます。つねに人形はあらゆる意味で「浮いて」います。

もし人形がすでに夢のなかにいるのだとすれば、人形とは、現実のなかですらたいして何も考えていない私たちが言うような意味で、生きている何かなのでしょうか。たしかに文楽の人形は生き生きとしていますし、すべての人形が生き生きしています。普通の所作も感情に基づく仕草も生を思わせます。しかし生き生きとしているのと、生きているのは違います。もっと根本のところで、もっと本質的なところで、私たちにとって人形は生の何かを背負っているのでしょうか。それはいったい生の何を担い、生の何を代弁しているのでしょうか。答えるのは困難です。代弁はしていても生を担っているとは思えません。人形というものが見れば見るほど不可解なものだと思うのは私だけではないでしょう。人形は何かしら「死」と関わりをもっていると思わざるを得ません。そして生き生きとして、死んではいないからこそ、私たちに「死」を思わせることだってあるのです。それに人形はいつだってその沈黙によって「生」という物語自体には無関心を示しているではないですか。まるで私たちのお粗末な反応を嘲笑うかのように。舞台から降りて、いずこかへしまわれた人形を想像してみてください。

およそ文楽とは無関係な本のなかで私の敬愛するフランスの大作家ジャン・ジュネはいきなり人を面食らわせるようなことを述べています。糸で操るにせよ、指で動かすにせよ、マリオネットだけがほんとうに黄昏の、弔いの、死のスペクタクルを見せているのだ、と。人形は沈黙しているのだから、そして沈黙というものはあらゆるものに逆らうものなのだから、これは当然の成り行きであるし、死者はその面影が喚起されるとき、みんな沈黙に姿を変えてしまい、人形たちは死者の帝国を、墓地に描かれた骸骨を思わせ、死を喚起するのだ、と。もちろん、マリオネットの人形と文楽のはるかに繊細な人形はまったく違うものですが、人形であること、その沈黙の質に変わりはないのだし、そのへんのところは差し引いて考えていただきたい。ジュネは日本に来たことがありますが、お盆と奈良の大仏と全学連にいたく感心していたとはいえ、たぶん文楽は見なかったのでしょう。ジュネは続けてこんな風に言っています。

「物語と声に対するこれらの人形の無関心から次のことが理解される。物語も声も彼らのものではないし、あるいは人が死んだら、人がわれわれについていずれ言うであろうことは、単に文字どおり偽りであるだけではなく、さらにまた嘘っぽく響くのである。死が無であることをわれわれに垣間見せてくれるすべての出来事のうちで、マリオネットはおそらく最も明白な合図である。自然主義的な真実主義(ヴェリズモ)がわれわれに信じ込ませたがっている諸々の効果にもかかわらず、くぐもっているか、それとも甲高い人形遣いの声と、人形のぎくしゃくした動きのあいだには、けっして一致はないだろう。そしてたとえむき出しでも、ごてごて飾り立てられてはいない私の十本の指には、すでに私から独立したひとつの生命——ひとつの舞踏——があるのだ。私が息をひきとるとき、それはどうなっているのだろうか。以上の数行を、とてもあやふやな言い方ではあるが、私は隔たりを測定したと言うために書いたのであるが、胸騒ぎでしかない隔たりなど、実際、どうやって測ればいいのか」

たしかに人形は、人間である「私」があらゆるものから隔たっていることを、人形自体の動きと風情によって決然と示してしまいます。浄瑠璃の物語や声、三味線の音に人形自体は無関心なのでしょうか。そうかもしれません。あまりにうまく三味線の音色に人形たちの動きが合えば合うほど、人形は舞台の上で私たちとは別の生を生きているように思えてきます。

そして人形自体が同じようにあらゆるものから隔たっていることは何となくわかります。どう言えばいいのでしょう。そんな隔たりのなかで、人形は、はっきり生きているとも死んでいるとも言えないにしても、あらゆるものが黙り込まずにはおれない不分明なあの黄昏時、犬でも狼でもないものに何かが変成しようとするとき、死者の沈黙がほとんど身近なものであることを私たちに告げているのです。そう言っていいと思いますし、それどころかたぶん人形の存在はそれ以上のことを語っているのではないかと思います。

それはそうなのですが、人形が何だか得体の知れないものであるとしても、一方、人形との対比において、私たちもまた調子っぱずれなものなのです。生きている指、あらゆる人間の舞踏は、どれほど美しいものであったとしても、また恐るべきものであったとしても、調子っぱずれなものです。残念ながら、と言うべきなのでしょうか。人形と私たち。何かの存在、人形や人間の存在などと問う前に、どうやら私たちもまた死者たちのあいだで生きているからです。人形のようにそのまま「死」を喚起する勇気がないだけです。あらゆるものが「生」の喧伝によって隠蔽されるのだとしても、そこで生きるほかはないからです。人形が死を思わせるとすれば、それが私たちにそっくりでありながら私たちとの隔たりを示しているからなのですが、それでも私たちと人形は死の共同体のなかで別々の仕方で棲息しているのだし、なおかつ私たち以上にたぶん私たちの秘密を、「死」の秘密を隠しもっているからだと私は思っています。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、『分身入門』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、『ヘリオガバスルあるいは戴冠せるアナーキスト』、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2017年1月9日第二部『染模様妹背門松』観劇)