文楽かんげき日誌

おいでやす、文楽へ!

髙田 郁

日記代わりのシステム手帳の余白に、心に留めておきたいことを記入する習慣があります。2008年4月13日の欄には、「芸も最後は人間性」と書かれていました。ABCラジオで桂米朝さんが「米朝よもやま噺」という番組を持っておられて、その日のゲストは竹本住大夫さん。私のメモ書きは住大夫さんが番組の中で語られたひと言だったのです。
そのひと言に、当時の私はよほど感銘を受けたのでしょう。「人間性」の箇所に二重の傍線を引いて、「その通りだと思う」とのコメントを書き加えていました。

当時の私は前職の漫画原作者から時代小説作家へ転身したものの、「売れる時代小説の条件は、江戸市中が舞台であること、捕り物であること、剣豪物であることです。あなたの書く物は売れる条件三つを全て外している」と編集者から厳しい指摘を受け、「売れる条件を満たした物を書くのか、それとも自分が描きたいと思う世界を書くのか」という二者択一を迫られていました。住大夫さんの先の言葉は、そんな状況にあったからこそ、強く胸に響いたのでしょう。

それまでに一度、友人に誘われて国立文楽劇場に行ったことがありましたが、この時のラジオ番組をきっかけに、文楽は私の心により近いものになりました。ただし、劇場に通う頻度は決して多くはありません。最後に文楽に行ったのは、二、三年ほど前になるでしょうか。当時は地下鉄日本橋の駅を下りても、劇場の方へ足を向けるひとはさほど多くなく、 劇場内も閑散としていました。文楽を取り巻く環境は厳しくなる一方で、本当ならそんな時こそ通って応援すべきなのに、以後は多忙を口実に足が遠のいてしまったのです。

改めて文楽へと意識が向いたのは、大阪ブックワン・プロジェクト(大阪ゆかりの作品をベストセラーに育て、その収益の一部で社会福祉施設を通じ、大阪の子どもたちに本を贈る取り組みのこと。通称「OBOP」)の、第二回選定本に、三浦しをんさんの「仏果を得ず」が選ばれたことがきっかけでした。

「仏果を得ず」は、若手太夫の健を主人公とする物語で、舞台は勿論、国立文楽劇場なのです。一読して、「おおっ!」と興奮しました。若い世代にはことに文楽の敷居は高いのですが、「仏果を得ず」では作者の三浦しをんさんの文楽愛が溢れ出ていて、軽妙な語り口とともにその魅力的な世界へ優しく誘ってくれるものでした。

「すごい! 文楽に追い風が吹いてきた!」 強くそう思いました。

OBOPの会合で、国立文楽劇場のかたと知己を得て、さらに今回、思いがけずこの「文楽かんげき日誌」にお声がけを頂いて、2015年7月18日の第一部と第二部を観劇させて頂けることになりました。

日本橋駅の七番出口を出た時から、確かに「風」を感じていました。それは館内に足を踏み入れた瞬間から、確信へと変わります。ロビーにひとが溢れていたのです。パンフレットを求める列に並んで周囲を見回していると、親子連れが目立ちました。夏休みに入ったからでしょう、小学生が多いのです。

この日の第一部は親子劇場。演目は「ふしぎな豆の木」と「東海道中膝栗毛」。間に「ぶんらくってなあに」という解説が挟まれていました。場内に入れば、お子さんへのイヤホンガイドは貸し出しが無料とあって、どの子もイヤホンを耳に差し込んでいました。

「ママも今日が初文楽やねん」 650円でレンタルしたイヤホンガイドを子どもに示すお母さんも居ます。

そう言えば、これまで一度もイヤホンガイドのお世話になってないな、と思い、早速、私も貸し出しを受けて席へ戻りました。

幕が開いて最初の演目「ふしぎな豆の木」は、何と「ジャックと豆の木」を題材にしたもので、その日が初演とのこと。英国の童話を下敷きにしたとは思えないほど、見事な和物に仕上がっていました。おまけに、まさかの「ハリセン」(チャンバラトリオさんの持ちネタでしたね、懐かしいなあ)の登場には、お腹を抱えて笑ってしまいました。

お子さんたちはどうかな、と時々、両隣りの様子を見てみれば、もう完全に舞台の虜です。よしよし、最初の文楽経験が楽しければ、多分、一生、文楽好きになってくれるはず、と内心にやにやしてしまいました。

文楽の解説「ぶんらくってなあに」では、子どもに向けてわかり易く人形の遣い方が説明されましたが、子どもばかりではなく、大人も座席から身を乗り出して聞き入っていました。こういう解説があれば、文楽への理解は深まりますし、さらに楽しくなりますよね。

そうそう、初めて借りたイヤホンガイドですが、これがもう、本当に大正解。第一部最後の「東海道中膝栗毛」で、台詞の中の「ほいほい」が泣き声を表したもの、というのをイヤホンガイドの解説で初めて知って、目からウロコがぽろりと落ちました。第一部のイヤホンガイドは子ども向けに解説されたものだからでしょうか、ことに優しい語り口で、内容も噛み砕くように易しくて、素晴らしいものでした。

イヤホンガイドの魅力に取りつかれた私は、第二部でも、勇んでレンタルしました。第二部は名作劇場、演目は「生写朝顔話」。場内の客層は一変、子どもの姿はほぼ消えてしまい、ぐぐっと平均年齢が高くなりました。楽しみにするひとが多いのでしょう、ほぼ満席の状態です。

物語はふたつのお家騒動を軸に、両想いの男女がすれ違いを重ねるストーリー。ヒロインの深雪が、深窓の令嬢のわりには押しが強いタイプの女性で、「あらまあ大胆」と思うストーリー展開です。しかし、その謎もイヤホンガイドが解明してくれました。その昔、文楽のお客は大半が男性だったとのこと。男性客に喜ばれるのは、男が女に惚れられて、惚れられて、という展開なのだそう。男性解説者の声を聞きつつ、「ああ、なるほど!」とうっかり独り言を洩らしてしまいそうになりました。

第二部は、深雪あらため朝顔が、苦難の末に再会した乳母と死に別れる場面で終わります。そう、結末は第三部へと持ち越されるわけです。ああ、しまった、どうして第三部まで観劇の予定を入れておかなかったのかしら、と思っても後の祭りでした。

第一部が始まったのが午前10時半、第二部が終わったのが午後5時半。途中、休憩を挟みつつ、文楽を堪能した一日になりました。でも、第三部を見ていないことは心残りでなりません。

さて、まだ文楽をご覧になったことのないかたへ、私からアドバイスさせてくださいませ。

文楽は決して難しいものではなく、敷居を高くしているのは、「見たことがない」という苦手意識に過ぎない、と私は思うのです。苦手意識を取り除き、初めての文楽を楽しむために、ふたつ、提案します。

まず、ひとつめ。予め演目を知って、あらすじを把握しておくこと。事前準備が難しければ、少し早目に会場に行き、パンフレットを購入すれば良いのです。650円で前知識は完璧になります。パンフレットには「床本」と呼ばれる詞章本が附録としてついているので、かなりお得ですよ。

そして、ふたつめはイヤホンガイド。今回、初めて利用させて頂いて、目からウロコが落ちる、落ちる、落ち続けました。舞台上に見える景色の説明、当時の風俗習慣、時代背景等々、いたれりつくせりの解説でありながら、決して観劇の邪魔をしない。

え? 「パンフレットとイヤホンガイドを勧めるあたり、国立文楽劇場の回し者のようだ」ですって?

いえいえ、文楽を心に近しく思う者として、もっともっと文楽好きを増やしたいだけなのです。そんな立場から、最後にひと言。

これをお読みの皆さん、おいでやす、文楽へ!

■髙田 郁(たかだ かおる)
兵庫県宝塚市生まれ、中央大学法学部卒業。 漫画原作者を経て2008年に「出世花」にて時代小説に転身。著者に「みをつくし料理帖」シリーズ、「銀二貫」、「あい 永遠に在り」などがある。最新刊は、デビュー作の「出世花」の完結編、「蓮花の契り 出世花」。

(2015年7月18日 第一部『ふしぎな豆の木』『解説』『東海道中膝栗毛』、第二部『生写朝顔話』観劇)