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国立文楽劇場

息をつめる

鈴木 創士

たしか日本の伝統芸術についての武智鉄二と富岡多恵子の対談で、「息をつめる」という話がされていたのを読んだ覚えがあります。息をつめる、息をこらす、息をこらえる、息を殺す。息を吞み込む。傘でも飲み込むように、息を吞み込むのでしょうか。だが息をつめて、事の成り行きを見ているのはこの息ではない。違うのです。ここでは、このつめた息こそが事の成り行きをつくりだしています。事の成り行きというものは、抽象的観点からすると、音楽に似ていなくもない。今回、目を閉じて浄瑠璃を聞いていると、その「息をつめる」ということを思い出しました。

目を閉じていては人形が見えないのですから、文楽を観ていて目を閉じることがあまりよろしくないことはわかっています。でも声は目には見えないし、つめた息はもっと見えません。つめた息は聞こえるのでしょうか。普通は聞こえませんが、聞こえることがあります。つまり聞こえるのです。卓越した技芸というものが、目には見えないところ、耳には聞こえないところに現れるのを、なんとなく感知できることは稀にあるし、日本の伝統芸能に限らず、ピアニストもギタリストもドラマーも息をつめることがあります。しかし浄瑠璃の息は、直接感じ取れるものであるし、感じ取らねばならない要であるし、そうであればあるほど、息が切れ、息がつめられる絶妙な間(ま)を、声の途切れを感じたいと思わないわけにはいきません。それが浄瑠璃の「音」の全体をつくりだしているような気さえしてきます。息をつめるとは、一瞬、沈黙することなのでしょうか。

声が、息が、吞み込まれ、とどめられ、途切れる。ふと、あるいは烈しく。息が吞み込まれ、さらに吞み込まれて、腹のなかにとどめられ、それからもう一度外へ出てゆき、かすれて、消えてしまう。見事なほど悲しいくらいに。 文楽の「楽しさ」には、次の息へ、次の息へ、というある種の焦燥感が漂っているように思えるのは気のせいでしょうか。私自身の感想を差し挟ませてもらえば、私の好みは、この「かすれ」、この「消滅」にあるといっても過言ではありません。 日常のうさを晴らすなどという俗なことに関しても、それは何かの消滅に自分を委ねることです。これはまるで一定の時間をかけて絶句し続けることではないのかとさえ思えてきます。実は息抜きをしているのでは、息を抜いているのではないのかもしれません。遊ぶ、などと言っても、ある年齢を過ぎると、ほんとうは息をこらえているのかもしれないのです。 なるほど息をつめて、絶句するのです。誰もが絶句するのです。すべてのすぐれた作家はつねに絶句している。物語の途中、何でもいい、話の途上には、絶句があります。文学には、おかしなことに、あるいは哲学的に言っても、絶句だけがあるとしか言いようのないことだってあります。 息が途切れる。だけど浄瑠璃は、単なる文章以上のものです。ライブなのですから。声と三味線の特質を考えれば、まさにライブ演奏の最たるものです。文楽は、ただの文章でも人形芝居でもなく、まずもって浄瑠璃である、というのはどうでもいいことではないと思います。

ところで、人形はどうなのでしょう。人形は息をつめるのでしょうか。息をこらえ、また息を殺すのでしょうか。舞台の上でまるで人形の息づかいが聞こえるかのようなのですから、人形が息をつめる瞬間もまた聴き取らねばならないところではないでしょうか。いや、聴き取るだけではない。私たちはそれを見てもいるのです。 武智鉄二は「息をつめる」ということを、武道や禅の専売特許ではなく、日本の農民から発したナンバ歩きの姿勢に関係づけていたように思いますが、私がここで言いたいのは必ずしもそういうことではありません。ノイズ・ミュージックにだって、息をつめる瞬間があるのですから。 人形の繊細でかすかな身振りが停止します。人間の仕草を真似ているようで、それでいてとうてい人間には真似のできないこの動きは、なんとも惚れ惚れするものですが、人形は動かなくなります。仕草から仕草の消滅へ。これは息をつめるということではないでしょうか。こちらも息をつめて、動きを止めた人形を見てしまいます。舞台には同時に動いている人形もあります。息をつめてばかりはいられません。 緊張の糸はぴんと張られているのでしょうか。そうでなければならないでしょう。それがぴんと張られていればいるほど、いずれ糸は切れてしまわねばならない。結局、糸は切れるに決まっているのです。琴線がつねに断ち切られることは必定なのです。息をつめて緊張し、息をつめて緊張が途切れるのです。

今回観劇した「卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」には、柳の精が出てきます。私にはそれが幽霊のようにも思えました。お柳といいます。お柳は夫の平太郎、平太郎の母、五歳の息子みどり丸とともに、紀伊国三熊野で仲睦まじく暮らしております。ところが白河法皇が都に三十三間堂を建立するために柳の大木が伐り倒されるという話を耳にします。法皇の頭痛の原因が、法皇の前世の髑髏が柳の梢に刺さっていることにあるからです。その髑髏を柳の木から外して三十三間堂に納めれば、頭痛は平癒するという熊野権現のお告げがあったのです。 もし柳が伐り倒されれば、木の精であるお柳は家族と別れねばなりません。人間の姿をして生きてはいけません。かわいい息子みどり丸とも離ればなれになるのです。やがて柳の木を伐る音が聞こえてきます。夫の平太郎は暢気に眠っています。夢うつつの夫に、別れを嘆き悲しむお柳は、自分が平太郎の前世である梛(なぎ)の木と夫婦だった柳の精であるということを打ち明けます。目を覚ました平太郎は夢が現実だったと知って、お柳を抱きとめようとします。しかし柳の精に戻ったお柳は平太郎の手をすりぬけて、またたく間にかき消えてしまうのです。

余談めいてしまいますが、お柳のこの消滅の仕方に興味をそそられました。人間の外観をしたお柳から柳の精と化したお柳への、人形としての変化はどうなのでしょうか。いま人間や人形という言葉を便宜上使いましたが、話はややこしくなるばかりです。これらが全部人形であることにかわりはありません。勿論、これは映画ではなく文楽ですから、もとよりこのシーンを映画が行うイメージ処理のようには幻想化することはできません。人間の外観も木の精の外観もともに人形によって表現されるわけですから、着物が白装束に変わりはすれど、顕著な質的変化は起こりようがありません。 ではどうして人間お柳から木の精お柳への変化がわかったのでしょう。私は人形の何を見ていたのでしょう。御簾(障子?)の向こうにお柳のシルエットの影が映し出される場面はたしかにありました。影が動いています。人形の影はたしかに人形そのものではありません。でもそれだけではありません。 人形は一瞬舞台から消えて、始めからそこにあったかのように、柳の精となったお柳が再び瞬時にして出現していたのです。物理的にこの手法、この演出方法を採るほかはないということはわかります。でも人形という物体の振る舞いには、あらためて考えさせられるところがありました。人形は「物」であり、古来より言われているように、そもそも物には魂が宿っているかもしれない。 消滅と出現が瞬時になされたのです。プロフェッショナルからすれば、技術的にはそれほど難しいことではないのかもしれません。でも下手をすれば、芝居が台無しになってしまう逢魔時の一瞬かもしれません。一言でいってしまえば、ですから私には、別の仕方で人形が息をつめたかのように見えたのでした。きっと演出をする人も人形遣いもまた「息をつめた」のでしょう。 息をつめる。人形が息をしているのなら、人形もまたたしかに息をつめるときがあるのだと思った次第です。 人形がほんの少し絶句したのです。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2015年4月20日『靱猿』『口上』『一谷嫰軍記』『卅三間堂棟由来』観劇)