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国立文楽劇場

隠れた主役

鈴木 創士

近松門左衛門といえば、いまではその名を知らない者はいないと言っていいだろうが、かつては浄瑠璃も歌舞伎も、芝居を書く作者の地位はわれわれが思っている以上に低かった。低いどころではない。浄瑠璃にしろ、歌舞伎にしろ、身分制度の厳しい時代であったから、そもそも芸能それ自体と芸能を担う芸能者自身の社会的地位が低かったばかりではなく、いまからすればかなり考えにくいことであるが、作者の地位はなかでも一段と低く、作者の名前すらおおやけにはされなかった。 作者など、芸能自体にとっても、またそれを見る観客にとっても、まったく重きをなしてはおらず、どこの誰でもいいし、どうでもいいというわけである。作者の地位の低さについては、少し想像してみれば、歌舞伎の舞台は役者が基になっていて役者本位であるし、なんといっても歌舞伎は役者の大盤振る舞いの世界であるから言うまでもなかっただろうが、浄瑠璃でも、あくまで作者は大夫の語る詞章のために、大夫の浄瑠璃の芸をある意味で補佐するためだけにいるかのようだし、実際、お話の「作者」であることはまったく重宝がられはしなかったらしいのである。

ところがそんな時代に、近松門左衛門はついに自分の名前を出した。そして非難された。非難はされたが、非難は近松によって無視された。近松は名前を出しつづけたが、いまからすれば普通だともいえる、この出たがり、自己顕示欲、自分の作品に対する「自慢」には、もう少し複雑な意味があったように思われる。作者は隠れた主役だったのか。 近松は「代々甲冑の家に生まれ」、つまり武家の出身だったのだから、いかにその当時、近松が浪人であったとはいえ、芸能の世界に足を踏み入れたことによるこの身分の落差、住んできた世界、いま住んでいる、これから住むであろう世界の落差は小さいはずはなく、しかもそのことに近松の作家としての実力と自分の実力に対する言い知れぬ自負が加味されれば、近松の作家としての特異さの形成に何らかの影響を及ばさないはずはなかったのである。

近松門左衛門は、その淡々として事実をなぞるような筆致にもかかわらず、あるいは意識的とも思えるそのロマン主義の欠如にもかかわらず、最初から複雑な作家であったと考えざるを得ない。以前にも書いたことであるが、近松作品のリアリストめいた「冷淡さ」の蔭には、最後まで、作者自身によってそれなりに巧妙に隠されているとはいえ、どこからともなく醸し出される、それとも突発的である「怒り」のようなものが私には感じられるのだが、そんな沸々とした怒りはいったい奈辺から出て来たものと言えばいいのだろう。よりによって大衆(そう言っていいだろう)芸能にこめられた「怒り」。たぶん近松はそういった自分の心情あるいは意図については知らんぷりを決め込んでいただろうが、それは近松門左衛門の偉大さをちっとも損なうものではなかったはずである。

浄瑠璃の大夫や三味線も、そして人形遣いも、生身の肉体が演じている。それは、崇高なまでに、悲壮なまでに、一回限りのものである。その瞬間において、そのつど、そして大夫たちの人生においておや(今回、第一部の『関取千両幟』は豊竹嶋大夫師の引退披露狂言だった)。 しかし浄瑠璃の声、三味線の音色はその瞬間に失われても、浄瑠璃の詞章は残される。すべての戯曲が「文学」であるのはこの意味においてである。近松門左衛門が「日本のシェイクスピア」と呼ばれようが呼ばれまいが、近松の辞世の句を読めば、詞章だけが残されてしまうというこの当たり前で、当たり前でない事実を、すでに近松は生前に強く意識していたのではないかとさえ思ってしまうのである。

さて、そんな近松の時代浄瑠璃『国性爺合戦』である。初代竹本義太夫が没し、危機に瀕していた大坂竹本座でこの芝居が上演され、竹本座は息を吹き返したのだから、好評を博した芝居だったことは間違いないのだろう。それでもこの時代物は、さすが近松らしくと言えばいいのか、私には幾つかの点で尋常ならざるもの、ある意味で異様なものに映ったのである。私は作家近松門左衛門のにわかファンであり、日本の伝統芸能については言うに及ばず、近松門左衛門についても研究したことはないし、ただの門外漢にすぎないのだから、間違ったことを言って恥をかくかもしれないが、それでもあえて思いつくままに述べてみようと思う。

主人公の和藤内(国性爺)は、歴史上の人物であり、中国人を父に、日本人を母にもつ明代の軍人であった鄭成功をモデルにしている。時は鎖国の時代である。異国情緒溢れるこの芝居に近松の政治的意図が働いていたのか、いなかったのか。当時の大坂の民衆がこの純日本風ではない物語にどんな感慨あるいは反感をもったのか興味深いところであるが、それは私にはわからない。 ともあれ、簡単に話の展開を説明しよう。今回の公演は、和藤内一家が韃靼人の支配する明朝の大陸に渡り、悲劇的にして、別の見方をすれば、勇ましくも希望に満ちたまま終わりを迎える三段目からではなく、初段からの上演であり、それは三十二年ぶりのことだったようであるが、ここでは少し話をはしょることをお許し願いたい。

和藤内は明と日本のハーフである。父は鄭芝龍といい、韃靼王におもねる逆臣、裏切り者の李蹈天に敵対する訴えを起こしたことによってかつて明国を追放された軍人だった。鄭芝龍は九州の肥前国平戸に移り住み、名を老一官と変えた。中国人の父と、日本人の母、ハーフの息子の和藤内。和藤内は漁のかたわら兵法を学んだ偉丈夫の軍人である。 ある日、和藤内とその妻が干潟に出ると、一艘の小舟が漂着する。舟にはひとりの唐土の貴婦人がいる。なんとかつて李蹈天との政略縁談から逃げて来た皇帝の妹ではないか。和藤内と父の老一官は、皇女から李蹈天の陰謀による明国の衰亡のありさまと皇女の苦難の境遇を聞いて、唐土に渡る決心をする。 老一官には唐土で生き別れになった娘がいた。和藤内の腹違いの姉である。姉は五常軍甘輝の妻となっていた。軍人である父と息子、そしてなぜか老いたる母も加えた三人は、こうして海を渡り、ひそかに甘輝に援軍を頼むためにその城、獅子が城に到着する。しかしすでに世は韃靼王の支配下である。おりしも甘輝は不在であり、警護は厳しく、見張りの兵は取り合わず鉄砲を彼らに向けるが、父は娘である甘輝の妻錦祥女に面会を求める。かくして父は懐かしい娘との再会を果たし、楼門の上に現れた錦祥女に身の上を語るのである。 しかし韃靼王の命によって、親類縁者であっても他国人は城内に入ることはかなわない。それならばと老母(といっても錦祥女とは血のつながりはない)が、お縄を頂戴した上で城に入ることを申し出るのである。囚われびとの老人なら、掟に背くことにもなるまい。ここで並み居る二人の軍人たちを差し置いて、母の知恵が全面に出てくることも尋常ではない感じがする。 錦祥女は義理の母を丁重にもてなしているが、そこへ甘輝が戻って来る。母は老一官と和藤内が韃靼王を討って明国を再興するためにこの唐土まで来たのだという事の顛末を甘輝に語るのである。 甘輝は韃靼王から直々に大役を命じられたところだった。老母の前で、その甘輝はいきなり妻の錦祥女の喉元に短刀を突きつける。大役とは、明国再興のために日本から来た和藤内を討つことだったのである。自らも明国の臣下であり、協力したいのはやまやまであるが、日本人とひと太刀も交えずに、妻ごときの縁によって和藤内に味方したことになれば末代までの恥となる。よって和藤内に味方をするには、妻の命をとらねばならぬ、と言明するのである。まことに奇妙な理屈ではある。いかなる恥なのだろう。これは妻の異母兄弟に日本人の血が流れているからなのだろうか。しかし妻は中国人である…。 母を縛って入城させる際に、ひとつの約束があった。甘輝が老一官の願いを聞き入れたならば、錦祥女が城の水路に白粉を流し、そうでなければ紅粉を流すということになっていた。城壁の外ではなすすべもない和藤内と老一官がじっと待っている。流れてきたのは赤い水である。望みは叶わなかった。城内へとなだれ込む和藤内。和藤内と甘輝が一戦を交えんとしたとき、割って入った錦祥女がすでに自らの胸に突き立てていた短剣を見せる。

母上は日本の国の恥を思し召し殺すまいとなさるれど、我が命を惜しみて親兄弟を貢がずば唐土の国の恥…

流れてきた赤い水は紅粉ではなく、錦祥女自らが流した血だったのである。かくなるうえは誰からも非難されることはないから、和藤内の味方になって韃靼王を討ってほしい、と息も絶え絶えの錦祥女は涙を流す。夫の甘輝はそれを受け入れる。 だが、それで終わりではない。なんと今度は、突然、母が錦祥女の懐剣をひったくり、自分の喉に突き立てるのである。そして死にゆく母は最後の言葉を述べる、

アヽ嬉しや本望や、アヽアレあれを見や錦祥女、御身が命捨てしゆゑ、親子の本望達したり、親子と思へど天下の本望、この剣は九寸五分なれど四百余州を治める自害。この上に母が存へては始めの詞虚言となり、再び日本の国の恥を引き起こす

ノウ甘輝国性爺、母や娘の最期をも必ず嘆くな悲しむな、韃靼王は面々が母の敵妻の敵と思へば討つに力あり、気をたるませぬ母の慈悲、この遺言を忘るゝな、父一官がおはすれば親にはことを欠くまいぞ、母は死して諌めをなし父は存へ教訓せば、世に不足なき大将軍浮世の思ひ出これまで

日本の武士の妻の言葉としてはわれわれもよく耳にしてきたことではあるが、動機は必ずしも日本風国粋主義的なものであるとは言い難い。彼女の夫と義理の娘は中国人であり、何を措いてもすべては明国再興のためであるからだ。史実は、和藤内すなわち鄭成功は台湾に渡り、暴力的な仕方でオランダ人を追い払い、明国すなわち中国本土へのいわば台湾の抵抗運動、一種のレジスタンスの英雄となったのだから、近松は話をまったく違う方向へシフトさせたことになる。 最後に母が自害してこの話が終わるということは、作者としての近松門左衛門にとって、もちろんどうでもいいことなどではない。甘輝の妻が自害すればそれで話は済んでいたのではなかったのか。それで明国再興のためにともに出陣できていたのではないのか。 私はこの芝居の物語としての要がここにあるような気がした。なぜ母は死ぬのか。武勲のために、日本のみならず中国の大義のために、一緒に海を渡り、息子と夫の武勲のために、しかし見ていろと言わんばかりに、目の前の夫と息子を差し置き、その武勲にお預けを喰わせ、単純な彼らの無策をねじ伏せるようにして、あらゆる話の落としまえをつけてしまう母。隠れた主役。これが異様でなくてなんだろうか。普通はこんなことはあり得ないだろうから、どうして近松はありそうもないことをあえて書いたのか。

日本人にとって「他者」はどこにいたのだろう。明国にとっての「他者」は? 母にとっては「他者」などいなかったということなのか。日本、中国。戦いという妄執の根本にあったはずの「父の名」はすたれてしまった。血はもはやほとんど関係ない。血はふんだんに流れたのだから…。 鎖国の時代に近松はすでにそれを知っていたのか。やはり近松は一筋縄ではいかない作家である。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2016年1月11日第二部「国性爺合戦」観劇)